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7 月 27 日: 「星夜に帆をあげて」を読んで

「夏休み」になったので, 読書感想文を引き続き書かせていただく.

というのは話の枕で, 前回の駄文 (後半) を読み返して, これは回りくどい書き方をしすぎたと思ったので, もう少し率直に, 魂に忠実に, それから建設的に, 短い出版業者生活を通して考えたことを記しておきたい.

ワシヅさんは, 仕事のことは一切 Web に書かれていないんですね, という指摘をいただいたことがある.そう, ここには魂のことしか 書きません.音楽や錦魚の話は魂に直結しますが, 仕事の話は直結しないのです, と答えた記憶がある. それは本当なのだが, もう一つ, ビジネスというものは 一種の生存競争であり, 進行中のゲームであり, したがって 不特定の人びとに対して手の内をバラすことは宜しくない, という 率直な理由がある.共同作業者に対して迷惑もかかるかもしれない. これは, プライヴァシーについて細かく書かないのと同じ理由である.

さて, 高樹のぶ子さんの「星夜に帆をあげて」(文藝春秋社) の感想文であった. 正確には, 「花嵐の森ふかく」(文春文庫;90 年 9 月 1 刷, 97 年 4 月 6 刷であるから, コンスタントに売れたようだが, ここ 4 年の間, 増刷がないようだ, それにしても小説は羨ましい) 所収.

高樹さんが, わしのお世話になった会社の先輩にあたる小説家である, という話は入社してまもなく教えていただいた. とにかく, 編集者のかたがたは話好きで親切である. 数か月で, その後の数年間に 匹敵するくらいの知識を授けていただいた. 高樹さんも, きっと在籍された一年あまりの間に同様の経験を されたのだろう.彼女の場合はさらに, わしのような フリーター歴 12 年のイビツな古参兵と異なり, 20 歳という 箸が転げても笑うような年代を過ごされたのであるから, より印象も強烈であっただろう. 急いでつけ加えると, 小説家としての 感性の差額分も当然あるだろう. その, 新鮮な季節について自伝的にまとめられたのが, 本作である.

話は, 同族経営の小さな自然科学系専門書出版社に入社した若き編集者が, 労組結成という事件に巻き込まれる顛末を通して, 「大人の社会」を体験する, というものである. (あれ?こんなふうにまとめて良いのかしらん.) 描かれている会社の体制, 組織のありようは, 30 年近い時を経て 不変である.読んでいて, さもありなん, さもありなん, の 連続であった.細かく書くと名誉毀損で訴えられそうなので止めておくが, どこがノン フィクションで, どこが作者の想像かを個人的に峻別できる 文学小説というのは, なかなか出会えるものではない.

ボウリング好きの若旦那, 真空に包まれたような朝の靖国神社, こうして過去のものとなってしまうと, 全てが良きこと, 誰もが通り過ぎるべきもののように思われてくるのが不思議である. どうして, このような読後感が残るのかについて, しばし考えた. それは, 作品が主人公である「さつきさん」の 目を通して描かれていることである.鮮烈すぎるのだ. 主人公が, 局長の「菊竹」氏や, あるいは組合の先頭に立った「用賀」氏で あったならば, もっと苦渋に満ちた, 社会的な, 構造分析的な作品に なっていただろう. 物語が「さつきさん」の 青春とオーヴァーラップしてしまっているので, この会社の問題の核心は, なんら解決しないし浮き彫りにもならないのだ. それが証拠に, ここに描かれた「用賀」氏の生活の状態は, 30 年を経ても, ほとんど何も変わっていない.

もっとも, このことを作者に要求するのは, お門違いであることは承知している. そんな, この小説にとっての「背景」を前面に出してしまったら, つまらないプロレタリア文学になってしまうだろうし, あなたが読者だったら そんなもの読みたい? この小説のいちばんの良いところは, 新鮮さと, 作者の人間観察の優しさである. わしだったら, もっと冷淡に描いたであろう.いや, 高樹さんだって, こうして穏やかに書けるようになるまで何年も時間が必要だったのかもしれない. 結果的に, 美しいフィクションになっている.そして, 続編である 「花嵐の森ふかく」では, 会社のことすら, はるか遠景に退き, 作者得意の恋愛小説と化している.

どんな小説であれ, 小説は, 全体を通して何らかのカタルシスを 読者に与えるものである.カタルシスを感じるには, まず外部からの 摂動があって, それに対して弾塑性的なリアクションが起きる, という二つのプロセスがある.高樹さんにとって, 外部からの摂動は, この出版社という不可思議な組織に出会ったことであった. この点については, わしとて同じである. 高樹さんは, その摂動に対して, 分析し理解するというリアクションを とるのではなく, 「いろいろな体験があった」と人間模様のセピア色の写真として 美しく描ききることによって, 読者にカタルシスを与えようとしたのである.

そこでハタと気がついた.わしには, こういう小説は書けない. わしが, この数か月考えつづけていたのは, 会社や人がどうというよりも, 「専門書を作ること」そのものについてであった. 会社を辞めて書き残せることがあるとするならば, 人間模様ではなく, 自然科学の出版について考えたことだけである.とりあえず. だから, 関係のない人には面白くもないだろうが, メモしておこうと思う.

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まず, 大前提の確認である.

出版不況といわれる昨今であるが, 果たして自然科学の書籍は「売れない」か. 細かな数字を挙げないが, 18 歳人口の減少, 新刊本しか置かない大衆書店 の激増とそれに伴う専門書店の減少, コピー機の完全なる普及, Web でお茶を濁す読者の発生, など, たしかに地味な専門書が売れない 要因は多い*1 秦先生によれば, これは 30 年来の「出版バブル」の帰結である ということだが, 駆け出しの者にとってはここまで断言する勇気がない. 取材でお会いした別の研究者は, 「岩波文化の荒廃」という言葉で説明された. いわく, 昭和中期においては, 岩波文庫, 新書を代表とする一種の教養主義が あった.読書人ならば誰でも読むべき本があり, その知識を前提に, 若者たちは 議論した.そうした教養主義には反面, 思考の画一化の惧れがある. そのため, この岩波文化を彼らは打破しようとした. 結果として残ったものは, 活字離れであった, と. このように, いろいろな要因が絡まりあっている状況であるが, もう一つ, 自然科学の場合, 標準語が英語であるという事情もある. 論文誌における Elsevier, 教科書における Wiley のように, 国境を越えた質・量ともに圧倒的な商品を抱える専門出版社が, 電子化技術, 博士号取得者を揃えた編集陣, 研究の片手間に書くのではなく 専門書執筆に特化した著者陣を抱えて, つぎつぎに魅力的な著作を送り出している. 簡単にいうと, このような出版社が「世界選抜」であるのに対して, 日本の出版社は「日本選抜」でしかないのだ. コスト計算をしても, フルカラーの洋書を邦訳するときにモノクロにせざるを 得ないのは, 購読者の母数が桁違いだからである. また, どんなにマニアックな本でも, 世界中の読者を足し合わせれば 採算ベースに乗るが, 日本限定となるとそうはいかない. 非礼を承知で書くならば, 洋書に対して 日本の専門書籍が総体的につまらないのは当然の結果であった.

では, やはり自然科学の書籍は「売れない」か. 前段で考察したことは, いわば自然科学書籍出版界の現象論的な状況であった. こんどは, 第一原理から, すなわち「売れない」か, ではなく「読みたい」か, という視点からこの問題をみてみる*2. 所詮日本は科学技術立国である, ということを考えていただきたい. 経済二流, 政治は三流であることは周知のことであり, 悲しいかな 日本の文化人の誰よりも日本のラジカセや日本車の方が有名である *3. 日本の人はこれからも, 工業製品を作り続けなければ食っていかれないのだ. しかも, 既存の技術を使うだけならばこの国の人でなくても出来るように なっているのだから, 技術革新を続けなければならない. そのためには, どうしても創造的な科学者・技術者を育てる, つまり, 本を読ませ, 教育を受けていただかねばならない. 「読みたいか」以前の必然的な需要が, この業界には依然としてある. このことは, 今後とも自然科学書籍出版における大前提として置いて良かろう. さらに, 先ほど述べた「英語が標準語」という点であるが, 日本の自然科学系の出版業界が破綻したからといって, 学部レベルの 自然科学の講義が英語になるという事態にはならないだろう. これを,卑下する必要はない. 英語圏をのぞいて, 母国語で基礎科学を教えられる国は, ドイツやロシア, フランスなど極一部であり, これは大変な幸せである. もっとも, 教科書の寡占化は, 今後進んでいくものと思われる. なぜなら, 大学改革?によって教員・教官の流動化が加速するからである. 細かくは述べないが, とくに教官採用において 競争原理が導入されることは, 「公平に見て良書」が 教科書として採用される確率が高くなることにつながる. この改革?が, どの程度のスピードで実現されるかは謎であるが. それはともかく, 翻訳物であれ, 良書を資産として持っている限り, その出版社は, とりあえず安泰だと考えて良い.

ここまでをまとめると, 自然科学の書籍を「読みたい」か, という 以前に「読まねばならない」人たちがいるため, これらの本は「そこそこ売れて」いる, と結論できよう. このことが, 自然科学系出版社を安定させ, 逆にいうならば 前近代的な状況を存続させてきた, ともいえる *4. ところで, これでは「読みたい本」が作られているのか, 売られているか, という 問いは残されたままである.

今の日本語の自然科学書籍を読みたいかどうかについては, 読者に聞いてみればよい. 幸いなことに, わしは生命理工学部という ところで勉強をはじめて以来, 現在研究している機械工学の 一分野に至るまで, 数学, 物理, 化学, 生物, 計算機科学 と, かなり広い範囲の分野において, 自然科学の 本の一読者であった*5. わしにとって読みたい本 (ここでは論文ではなく単行本のみを取り上げる) の分類は以下のようになる.

・教科書 (i) 初学者むけの導入からはじまって, 順に学問体系を明らかに していくタイプのもの  …理論物理や数学に多い
     (ii) 学問の内容を順に提示したタイプのもの  …生命科学や材料科学な どに多い
・読み物 トピックを集め, 詳細よりも思想を伝えたり現状を説明するもの  …暇潰しの読み物だけでなく, シュレーディンガーの「生命とは何か」や, ダイソンの「生命の起源」のように, 科学者魂を揺さぶるようなものを念頭に入れている.

大体の本が, この分類のどれかに当てはまるであろう.

さて, 「読みたい本」を作る, ということになると, この分類において 良い読み物を作るにはどうすれば良いか, ということを考えてみたく なるものだが, 話が拡散するため, ここでは教科書について考えたい. どの分野の研究をするのであれ, ある分野の科学者になるためには, どうしても押えておかねばならない 教科書というものがある. それは「読みたい」というより「読まねばならない」 本ということになるが, 売る方の立場からいえば, こちらの方が読者の 首根っ子を押えられるため, 都合が良い. たとえば, この春まで専門であった高分子電解質溶液の物理化学を 研究するためには, 最低限, どのような本が必要であったかを思いだしてみる.

[1] 微分積分, 線形代数,物理数学
[2] 力学, 電磁気学, 熱力学, 量子力学
[3] 統計力学
[4] 高分子物理学, 電解質溶液の物理化学
[5] 高分子電解質溶液の物理学

括弧[ ]内の数字は, だいたい大学の年度に対応するだろう ([1][2] は一年目の数学と物理に対応するが). これは, いわばメインロードであり, 当然他にも, 実験をやるのであれば各種実験法を, 化学者でございと 言うのならば他の化学を, 生き物がかったことをやるのならば 生物物理学などを, 学習する必要はあるが, それは側道である. このメインロードを突っ走るために必要な本が入手できたか, ということを考えてみよう. [1] から [3] までは, ちょっとした 専門書店にいけば, 比較的容易に入手できる. 物理屋, あるいは物質科学一般に関わる人には必須の学問である から, それだけ供給も多い. 供給が多いということは, 駄作も多いということでもあり, たとえば [3] でいえば, 最終的には誰もが Landau-Lifshitz の教科書や, 久保の問題集 (統計力学は練習問題をたくさん解くのが 一番の近道だというのは, I 先生の名言である) に辿りつくようになっているが, それ以前に 多くの駄作を掴まされることになる. 問題は, [4] [5] のように, オーソドックスな統計力学からちょっとでも 深まった分野になると, 途端に良書に出会えなくなってしまうことである. たとえば, 高分子物理学では岩波から土井の簡潔な良書が出ており, 高分子科学の本質を学べるが, de Gennes の訳書は辛うじて入手でき, Flory に至っては絶版であり, 図書館で借りざるを得なかった. 50 年近く前の本ではあるが, 今でも多くの示唆に富んでいる. [5] については, 大沢が 1970 年に Dekker から出した本が 未だに最良の本であり, 現役の参考文献として最新の論文でも 引用され, 国際学会でも共通の前提知識として語られるが, 絶版である. 未だにコピーしか持っていない. ドイツのクラシック音楽でいえば, バッハとモーツアルトや ベートーヴェンは最近の校訂版なら楽に手に入るが, シューマンやブラームスはちょっと入手困難であり, シェーンベルクから先は絶版です, といった感じだ. こう例えてみると, 異様さが伝わるだろうか. しかも, このような状況は, 高分子に限ったことではない.

したがって, わしが出版社の入社の際に編集者としての 展望を問われたときに答えたのは, 「絶版をなくしたい」ということであった. Flory の教科書の邦訳は弊社から出ていた. そのときに言われたのが, 「編集者というのは新しい本を 企画するのが仕事ですよ」ということだった. その指摘は正しい. わしは編集者よりも読者の立場に近すぎた.

しかしながら, と思う. 商売の基本は, お客様に満足していただくこと ではないのか. 顧客は, 採用本として講義で使っていただく 教官・教員の方々もさることながら, それを買わされる学生を 含めた読者そのものなのではないか. 理解を深めようと次のステップに進みたいと読者が思い, 本を 探したときに, ちょっとでも専門的になると, もう欲しい本がない, という状況をなんとかするべきなのではないか. 一冊の本の企画年数は 4 年である. その 4 年間の 間に初版が売り切れなかったら, ほとんどの場合, 再版されない. 4 年というのは, この Web サイトの寿命より短い. それ以前に, 書店の店頭から姿を消すのは数ヵ月であるが, とりあえず書店の現状には目をつぶろう. ネット書店というものがあるから. たしかに, そうした需要を満たそうとするならば, 多品種を 少数販売せざるを得なくなる. 市場を見渡すと, 自動車のように, 何十年も前から多品種少量生産を行ってきた 業界もある. 自動車は, 注文が入ってから工場で作る. 単価が違うではないかと言われれば, そのとおりで, その意味で, オンデマンド出版が現実化してきたということは, やっと書籍業界は自動車業界に追いついた, と考えることもできる. 読者に見放されても, 採用があればそれなりに商売が成り立つのが この業界ではある. しかし, 採用を増やすためには, 著者関係者 以外の教員, という利害関係の深い読者のことも考えなければならないだろう. どっちにしろ, 読者というお客様の方向に顔を向けていない本作りは, 長期的にみて得策とはいえない.

本を作る側から読者の方向を向いている限り, 真っ先に出て来るのが 先に述べた「絶版をなくす」ということであり, 上の表で [4] - [5] に相当する, つまり基礎的分野からちょっと 進んだ分野のラインアップを充実させるという考え方である. このあたり, すなわち学部 3 年次から修士レベルの良書を出すのは 大変に難しい. なぜなら, 出版社は「採用」が確保できない本の 出版にはためらうものだからである. 4 年で 4000 部売る, ということを 考えると, 年間 1000 部, すなわち, 日本国内でその分野を 履修する学生が 1000 人いなければならない. 学部 3 年レベルだと, 50 人単位ほどの学科に分かれた頃であるから, この数字を一人の担当教官で賄うのは無理である. それどころか, その分野の学会の総員が 1000 人に満たない となると, 出版社側は絶望してしまうのである. それでも, 版元が出版に踏み切る場合があるとすると, 学協会からの強力な後援があるとか, 以前にベストセラー (といっても 1 万部売れるとベストセラーであるが) を 飛ばした著者であるか, といった制限がつく. ときどき, 10 万部を越えるといった超ベストセラーが生まれる ことがあるが, 興味深いことに, その多くは, 採用本でも学協会からの後援もなく, 担当編集者と出版社が賭けをしてみた結果である.

ところで, 自然科学書籍の著者の多くは, 売れるかどうか, ということはあまり考えていないものである. 本にしたら面白い, 良い, ということが先にある. 読者としても, 売れている本だから, という買い方よりも, それしかなかったから, という買い方が多いのではないか. そこで提案したいことは, とりあえず出版社を間に置いた本づくりは やめてみたらいかがだろう, ということである. 実際に, [4] - [5] クラスの本は, 「講義ノートをまとめてみた」 といった経緯で出版されるものが多い. せっかく良い講義ノートがあるのであれば, それに少々手を加えて いただいて, 受講者以外にも開示していただけないだろうか. 自然科学書籍の場合, 読者も装丁にはそれほどこだわらない. 極端な話, テキスト ファイル のベタ書きでも構わないのだ. それを ネット に開示していただければ, 読者はダウンロードして 印刷できる. ここで問題となるのは, 「流通経路をどうするの?」ということである. 先に述べたネット書店やオンデマンド印刷が登場したにも関わらず 今ひとつ進展しない理由は,出版物の流通は取次各社が担っている という事情がある. しかし, 実は, 計算科学では, これについての成功例がある. UNIX ユーザーにはおなじみの, GNU プロジェクトのドキュメントである. 和訳はこちら. これらのドキュメントは, Web や ftp など ネット を介しても入手 できるし, GNU プロジェクトの母体である FSF (Free Software Fundation) を通して, あるいは日本では さまざまな出版社 から, 印刷製本されたものが入手できる. すなわち, これらの本は, 出版社を間に置いても, 置かなくても, とにかく入手できるようなシステムになっている. 本の元データは,それぞれの著者の,あるいは著者の周辺を探せば Web ページに 置くことくらいたやすいであろう.とするならば,そこに対するポインタ, つまりリンク集のようなものがあればいい.誰が運営するのか, というのが問題ではあるが.

本の元データを作るときの注意点を一つ述べたい.それは,できれば単なるテキ スト ファイル ではなく,TeX の原稿で清書したほうが,いろいろな面で有利であ るということだ.数学や物理の若手には今や当たり前すぎることだが, それ以外の分野の人にとっても,これは後で述べるように,出版するときに大き な利点となる. TeX の特徴は,数式の出力が美しいことであったり,文献引用 をシステマティックにできること,索引や目次が半自動的に生成されること,などがあ る.それ以上に重要なポイントは,通常の自然科学書籍を担当している印刷会社 も TeX を使っている,ということだ.原稿が TeX で入稿されると,印刷原価が およそ半額になる.同じ電子媒体であっても,元がワープロ (というか生テキス ト) 文書であれば,写植機への入力を行う 組み版のオペレータの人件費は浮かない.印刷原価が半額に なるということは,本につける定価をより低く設定できるということである.定価と いうものは,著者が考えるよりも出版にとってはるかにシビアな問題であり,版 元が持ち込み企画を断るときの殺し文句が「定価がつきませんよ」という言葉で あることを十分に吟味していただきたい.現実には,出版社では手書き原稿ある いはテキスト形式の原稿も受け付けてはいるが,それは,仕方なくであると いうことを忘れないでいただきたい.編集者にとっては,出したい本が手書きで あるために出せない,などという漫画のような悩みがあるのだ.したがって, Web に公開するゲラの段階から TeX で書いておくことは,後々の出版を考える 際の大きな利点となるのである.

ここまで,単行本になりにくいが読者の需要がある本を,TeX で作成して Web に公開したらいかがであろうか,という提案を行った.著者にとってみれば, TeX で書けばカメラレディの版下ができあがる,では,出版社は何をするのだろ う,と思われるかもしれない.確かに,これは今後の出版社の存亡にかかわる問 題である.すなわち,TeX (や SGML や XML) がこれほど普及するまでは,割付 という大きな仕事が出版社にはあった.TeX では,基本的な割付は著者が行える. ここで, ささやかながら, これから編集者として活躍される方々に申し上げたい. 今こそ,「編集者」という存在が問われるのだ, ということを. 小説など,専門書でない出版物の編集 者の間では「編集者は第一読者である」という言い方がなされる.すなわち,出 版のプロとして,校正や割付などの実務作業は当然のことながら,真っ先にその 著作を読者の代表として読み,著者と相対するのである.内容について,突っ込 みを入れ続けるのが編集の仕事であると考える.果たして,現在の自然科学書籍 の編集者は,そうした本来の意味での編集を行っているのか,ということは畏れ 多いので言うまい.あくまで広い意味で,人材不足,待遇不足,社会的地位の不 足を指摘しておきたい. 著者の作成した TeX 原稿がそのまま,Web で流通する というのは,いわば現時点での市販の教科書がそのまま ネット で流通するという ことである.それを元に出版するということは,それよりも高い付加価値を版元 が加える必要があるということである.それは十分に可能だと考える.まず,体 裁からしても,著者が作るべき原稿は素の TeX (pLaTeX2e など) 原稿の方が, あとから加工しやすく,そこにはモノ造りのセンスが要求される.また,本を書 いていると,独りよがりの表現になることはしばしば起こる問題である.あると きは,部分部分の表現を超えて,全体の内容について再考したほうが良い場合も あるだろう.そうした全ての編集サービスの上に,版元としてのブランドが付加 価値としてつく.そのとき,読者は素の Web 版を入手しても,あるいは付加価 値を加味した市販版を入手しても良いという,二つの選択肢ができることになる. これは,ちょうど計算機のソフトウェアにおけるフリー版と市販版の違いに相当 するだろう.さらに,時間のスパンを長くとると重要になってくるのは,先に述 べた「絶版」という問題である.オンデマンド出版がより簡便に普及するまでは, やはり,このように造った本でも数年の販売期間しか持続できないであろう.ソ フトウェアよりも本来の寿命は長いにもかかわらず,である.そのとき,著者は 著作権と出版権とは別である,ということに注意すべきである.すなわち,通常 のいわゆる印税は出版権に対して支払われる権利であり,著作権そのものは 留保される. 一定の期間がすぎれば,著者は版元に対して無許可に, 元の Web 版を配布できるのである.また,市販版が存在す る期間であっても,版元との交渉によって Web 版を公開できる可能性がある. 実際に,このようにして作られた教科書がある*6

最後に, 出版界を目指そうと 思ったこともない, 自然科学系の後輩の皆さんに, 言い残したい. 自然科学系の出版は, ツッコミどころ満載である. 何よりも, 日本では自然科学出版の重要性が認知されていない. 上にも述べたように, 必要な本が出版されず, 出版される本の大半は 本質的な意味での編集の手が入っていないものばかりである. これは中堅の版元に限らず, 大手もである. 著者に対する編集者の地位は低く, ところによっては, 30 代で家族を 普通に養えるだけの給料すら払っていない会社がある. マスコミにしても, 朝日新聞の大阪支社の科学部がなくなるなど, 本気で科学技術立国たらんとしているのか不思議である. また, 欧米に比べて学位取得者が出版業界に少なすぎる. 全ての編集者に必ずしも研究歴が必要だとは言わないが, 研究歴のある編集者ならば出来ることが多いのに, と思うことしきりであった. 自分のいた 東京大学をはじめとする 多くの大学院在籍者と話をして, 出版社に就職したいという人は 自分以外にほとんどいなかった. 実際に出版業界に入ると, そういう人はいるものだが. 学問が好きな人は本が好きだと短絡していたのが可笑しいほど, これは珍しい考え方のようである. これらの状況の全ては, 裏を返せば, 本気で出版業界に立ち向かっていく 勇気と能力のある人が現れたならば, 活躍の場は非常に多いということである. この業界には, 何代も続いたオーナー企業が多いが, そうした旧態依然たる 版元には出来ないことを実行すれば, ビジネスチャンスはいくらでもある. それまでの研究業界での経験と, 情報技術力を組み合わせるだけで, 随分いろいろな企画を立てることができよう. 今後, 大学院拡充, ポスドク一万人計画の被害者が大量に失業者 (というか就職できない人) として街に溢れるのは目に見えている. そのとき, 研究歴をただ研究活動そのものに活かせば良い, という単純な発想では 職は得られないだろう. こうした事態は, 既に人文系や社会科学系では 日常であるのだが, いわゆる理系でもそうなるだろう. このとき, これまで学部卒が主流だった高級官僚, 科学博物館などの社会教育基盤, そして出版を含むマスコミが, これらの人びとの 受け皿になるべきだと考える. いずれも, 本来的に博士を必要としている業界である. 残念なことに, わしはこういうことを真面目に主張する人に ほとんど会ったことがない. 日経の Y 君くらいのものである. ほとんどの人が, 研究職を探すのを当然としておられる. 結果的に, かく言うわしも研究を続けることになったのだが, 社会状況, 業界の状況を見るに, こういう行動をとる人が少ないのが, 非常にもったいないという想いがある.

自然科学の本,とくに教科書を作るということについて,読者,出版社, 著者のそれぞれの立場から考えてみた.こんな日本語力で,あるいは 出版を齧っただけの癖に,という指摘を受けることは重々承知で 書かせていただいた.偶然なり何なり,この駄文を見た先輩諸氏にはあきれられ, 叱られることも覚悟している.要するに,出版をめぐる環境がもう少し 読者本位になり,著者と出版社がプロとしてそれぞれの役割を果たせば, 日本の自然科学出版の未来も経営者が言うほど暗くはない, 「読みたい本」を作ることは可能だ, ということを指摘したかった.



*1 ちなみに, 「海外の格安労働者の圧力」をここに加えた 人がいたが, 出版業界においてこの要因は存在しない. なぜなら, 日本の出版界は日本語によって守られているからである.

*2 売ることよりも読むことの方を 第一原理に置いたのは, 本の特性を考えてのことである. 本はもともと, 商品になる以前から書かれ→読まれる, ものである. 仲介業者, すなわち版元, 印刷所, 取り次ぎ, 書店といった現在の 流通形態が出来上がる以前から, 本は流通していた.

*3 ということを実感したのは, ナイルデルタの真ん中であった. そのわりには, これほど科学者や技術者が冷遇されている国も珍しい.

*4 なにかに似ているだろう.

*5 このことを先輩編集者に告げると, 皆さん一様に「読者が編集者に なるものではないよ」と言われた.

*6 たとえば 田崎晴明 氏の 熱力学 ― 現代的な視点から .

.Lastupdate: Sat Jan 21 14:23:17 2017.