2000年3-4月のWhat's New!


最新のWhat's New
ここからしか飛べない過去のページもあるよ。


4 月 26 日: スキャナー

と, 4 月からというか今年に入ってから書き連ねてきたクダクダを 読み直してみると, 全くもって地味な生活だ. . まぁ, これで「毎月ライブやるよ!」などという生活をしていたら 超人になるか死ぬかどちらかなのだが. .

ということで, 時間もないが金もないという場合に楽しいのは ささやかな買物をすることで, 悪名高き Yahoo! のオークションで 2000 円のスキャナーを買いました. Canoscan 300 という昔のものですが, このサイトに使っている 写真を取り込んだものと同等なものなので, まぁ使えるぜ. ほっほっほ.

以前, 新聞社で下働きをしていたときに使っていたスキャナーと 文字認識ソフトは 500 万円だということでした. 10 年近く前のことです. 家電製品の業界紙の会社なので, 各社のプレスリリースや他紙を スキャンして, 紙面を作るんですわ. こんなんで金になるのが 信じられませんが. 因みにわしの仕事は, そういった剽窃作業 (プレスリリースを使うのはいいとして, 他紙の記事をわしが要約したものを そのまま記事にするか?) やテープ起こしでした. これで専門の速記者を 尊敬できるようになったのは収穫というべきか.

で, 2000 円の Canoscan に付属していた文字認識ソフトでも, ほとんど それと同程度の精度で文字認識できました. 涙ぐましいっすね.

こういう枯れたハードだと何が宜しいかというと, Linux でも充分使い物に なるということです. 定番の SANE と Gimp の組合せで使えます. ということで, 「Linux うろうろ」に書かねば (まだ).

そういえば, 以前はシェアウェアだった Jazz が, いつのまにか GPL になっています. 時代の流れというか. 現在使っている Quadra の持ち主が返せと言ってきそうなので, ぼっこい Mac を 新たに買おうか Windoze 版のシーケンサーを買ってしまおうか迷っていましたが, ひょっとしたら Jazz & Linux で Performer & Mac の代用として そこそこいけるかもしれない.

4 月 24 日: フェア

お前は最近何をやっているんだと言われたら, 今度は秋に ブルガリアに行くことになりまして, 再び予稿をせっせと書いている のでありました. 同業の方はおわかりかと思いますが, そんなに目も眩むような結果がどんどん出てくるということは あまりないので, 同じような内容の文章を, 手を替え品を替え 書くわけであります. さらに幸か不幸か, ボスも同じような発表をされるので, ますます他人には同一人物と思われる可能性があります. ほとんど同一人物なんですけど, はは. .

現代の自然科学は非常に細分化されているので, あっという間に 国外脱出ということになります. その点, 水泳のように Free Style などという恐ろしく包括的な種目があると, なかなか国外脱出というわけには いきません. わしなぞは, その Free Style で区大会を勝って 市大会に出たのが精一杯でした. 正直に書きますと, 区大会 6 位で市大会に出るリレーの補欠として 区の合同練習に参加しただけです. それでも, 入賞して合同練習に 出られたのは嬉しかったものです.

その先には, 県大会, (東海)地区大会, ジュニアオリンピックや今回の日本選手権 などの全国大会があります. そこから先なんてはるか雲の上. このように競泳をやらない人には想像も出来ないような 巨大な階層構造が日本にはあります. 人口だけでいえば, 野球人口にも 勝るとも劣らないかと思います.

全国大会の中でもジュニアオリンピックや高校総体は年令別ですが, 日本選手権はいわば無差別級で, とにかくここで勝てば, その年の日本で一番速い 泳者になるのだと思っておりました. しかも, 途中で泳法を変えなければどんな泳ぎ方でも良い Free Style で 勝つというのは, 格闘技でいえば K1 で勝つようなものでしょうか. それだけ日本選手権の Free Style で勝つのは凄いことなんです.

しかし, もっとすごいのは末端の競技会からオリンピックや世界選手権まで, 出られるか出られないかは単純にタイムで決まるという原則です. ごく末端の競技会にしか出られないわしでも 1.5 倍の速さで泳げば世界記録なんですから. その夢と現実との間に何万人もの人がいる. そいつがガキでもいいしババァでもいい.

興味深いのは, 普段関係者じゃない人ばかりの声が大きいことです. 何故, 良く知っている人は沈黙しがちになるのか. 思うに, この恐ろしくフェアで単純なルールによって, このピラミッドは 出来ているんだと, 多くの人は考えている筈です. わしもその一人です. 世間もそう思っている. ところが, タイム, 順位, 種目と, たった 3 つの要素だけの組合せの中に「解釈可能」な余地が生まれる. ここを参照.

ここを読んでもなお, 勝者は尊重されるべきだと思いますが. 最強の女子 800 m Fr リレーを是非, 見たいですし. 「将来性」てのは判断基準にするべきじゃない. 混乱のもとだ. それから発言云々といっても, ジョン・ロッカーみたいにとんでもないこと 言ってるわけでは全然ないわけで, 全く問題外.

それから, このピラミッドはそれでも単純なルールで構築されている. それゆえに, 人間関係がはっきりしていてモノを言いにくいという こともあるでしょう.

「資格」のある人はみんな勝負させればいいのにね. 大きな声では言えませんが(って書いてる), 東欧などでは 日本選手団をなるべく沢山招聘して学会を盛り上げたり(笑)することが 多いようなのですがね. . 招聘っていっても自腹だったりする.

4 月 18 日: 暴動

また調べもせずに書いていますが. .

わしは幸い暴動の現場に居合わせたことがないし, 系統的に 各地の人間が起こす暴動について調べたこともないので直観で 書く訳ですが, 暴動って大体において「多数者が少数者を襲う」 んじゃあないでしょうか.

これは必ずしも地域社会の最大多数派が少数派を襲うということを 言っているのではなくて, 見境もなく他人を襲うことが出来る場合 といったら, 自分がいる場所の局所的に自分の仲間が多い場合だけ なのではないかということです. そうでなければ, 反撃が怖いので 滅多やたらに他人を襲うことなんて出来ないのではないか. 反撃が怖くない場合, というのは自分が持っている武力が相手より 勝っている場合でしょうから, 多数者というのは単純に人数の ことではないでしょうけれど. 局所的というのが重要で, 同じ市内でも暴動が起こっている場所と 起きていない場所があるだろう. たとえば大阪の西成区の暴動は 千里までは波及していない筈です. 西成では暴動を起こしていた人々は 現地ではある種の多数派であったということを言いたいのです.

歴史的に, 暴動は特定の人種, 宗教に関わらず起きている筈です. たとえば, 近世ヨーロッパではキリスト教徒によるユダヤ教徒に 対する暴動が起こったり, オスマン帝国内ではムスリムによる キリスト教徒に対する暴動が起こったりしていたそうです. しかし, オスマン帝国では西欧と異なり迅速に派遣できる常備軍が あったため, 暴動を鎮圧することが出来たそうです. 西欧には, この種の制度がなかった.

そこで現代の日本を見てみると, 災害などの非常時に暴動が起こるとすれば, 日本国籍を持つ人々が起こす可能性の方が他の可能性よりもよほど高い のではないでしょうか. 非常時に秩序が乱れるのは当り前で, 秩序回復のために軍隊になんらかの役割が期待されるのも理解できる (陸上自衛隊のことを陸軍と呼んで構わないと思う)が, どうしてその対象が「第三国人」になるのかが, わからないのです. 「非常時にも居住者全ての安全を守りますよ」, もっと言うなら 「日本人が外国人に対して暴動を起こしても, すぐに鎮圧しますよ」 くらいのことを東京都知事は言うべきなのじゃあないか, と. それが多民族社会における多数者の代表としての責務なのではないでしょうか.

わしは生理的に人種差別という感情がわからない. 差別を受けたことで何かが中和されていて, 徹底して個人主義的だから なのかもしれないけれど. でも, 生理的に人種差別感情があれば, なおさら 理知的であらねばならんのではないかいな.

ここでも何度か書いている, わしの大好きなユーゴスラビアという国は, ばっさりと書くとイスラーム的帝国主義が 500 年, 共産主義的社会主義が 80 年, 民族主義が 10 年と支配思想が交替しているが, 暴動に際しては今が一番 知恵がない時期にあるのではないかと思います. そういう意味では, セルビアの大統領と東京都知事とだと 同じレベルの発言をしただけだといえますが, これからの人間は間違いなく彼らより先のことを想像しなければ ならんのじゃないかと思うのです. つまりイスラームや社会主義が なくても暴動が起こらないシステムはどうすれば実現できるか, という問題に尽きると思います.

実は自分が鎮圧されちまったらどうしようかと悩ましいのだが. .

4 月 17 日: なんたる時代

来る 7 月頭に Les Diablerets に行かねばならんのですが, 全部自費なので なるべくせこい計画をたてたい. ということで, Web でいろいろ探したのですが, 航空券, 鉄道, 宿と主要なもの 全てが Web で済んでしまいました. なんたる時代. Web でいろいろ 調べなければ, 帰りに香港一泊のキャセイパシフィックで 73500 円, などという予定は思いつかなかったでしょう. (南回りといっても, 香港←→チューリッヒは 12.5 h なので, そんなに 北回りと変わらない. 大韓航空の方が速いが予定が合わなかった. 第三希望のアエロフロートになってしまうと, 行きにモスクワ空港で野営する 必要がある. それよか香港観光のほうが楽しかろう. しかもアエロフロートの帰りの便はミラノ発になってしまい, 電車で国境をまたいで 出向かねばならん. こうなってしまったら, 面白いので旅行記でも書きます. . ) ホテルにしても, 学会御用達の四つ星ホテルの隣にある半額のものが 当のホテルのページで予約できたし. 隣なので, 移動に際しても先生方にくっついていけばいいだろう. 極めつけはスイス国鉄で, 駅名を入力すれば 4 つくらいの候補の時刻表と運賃が即座に見られます. さすが, 世界で唯一日本より物価の高い国だけのことはある. 既に, 旅行した気分になってる. 早く予稿を書かねば. .

4 月 13 日: 伊勢海老

昨日, 牧場をやっている親戚の家に遊びにいった際, 伊勢海老を 手土産に持っていったのです. 家について, 蓋をあけたら, 中の一匹が逃げ出して, 廐舎の方に《しゃしゃしゃしゃ》と 走っていきました. 「危ない」, と誰かが叫ぶと同時に, 馬の嘶きが聞こえ, 次に《めりっめりっ》という皮を剥ぐ音, 《しゅわしゅわしゅわしゅわ》という唾液の滴る音, 《かんかんかんかん》という鋏の音が聞こえてきたのです. 恐る恐る覗くと, 廐舎の中では一頭のシマウマが血を滴らせて横たわって いました. その傍らには, わたくしの所有していた伊勢海老が, 無表情にこちらを見つめていたのです.

目覚めたあと, わたくしは傍らの人に上記の話をしました. 「でも, 伊勢海老がシマウマを食べ切れるわけないよ」 「そうだね. でもそのときは, これで俺達が食われることはない, と 安心したのだよ. 」

伊勢海老がもし陸棲動物だったら, かように人々の食卓にのぼることは ないだろう, と思いました. 考えますに, 活作りにされる生き物のほとんどは, 水棲動物ではありませんか. 水の中でもやらねばならない, そのように 強く決心したのでありました.

4 月 11 日: 花見, モンゴル

今年は週末に 3 回も花見にいきました. 最初は先生と駒場公園, 次に友達たちと砧公園, 最後に妻と駒沢公園. 駒場公園は旧前田候爵家の敷地で, 360 度, 直径 50 m 程度の円周上に 桜が植えられています. その背後に洋館があります. 今は近代文学館になっていますが, 往時は, さぞかし豪盛な暮らしぶり だったのでしょう. 奥の部屋から病気の美少女の弾くピアノが聞こえて きたり, 半地下の実験室では狂ったお兄さんがフラスコを爆発させていたり.

最近, モンゴルがちょっとしたマイブームでして. .

モンゴル人ってのは, 「あんたもモンゴルになるか?」「おう」ってな 感じで, モンゴル人に《なる》もので, 民族という概念とはちょっと 違うものだったそうです. どうして, 歴史上あんなに巨大な国家を 作ることができたのかというのが, ちょっとわかった. イスラームと似ている. 「あんたもムスリムになるか?」「おう」ってな 感じで. じゃあ, ならない人はどうなるかというと, 基本的には 殺されるんじゃない, 支配されるんですって. で, 生粋のモンゴルは 官僚仕事が好きでないから, 官僚仕事はそれが得意な中国系の被支配者が, 貿易はムスリムが, てな感じで国を広げていったそうです.

これは「アメリカ人」のありようとも似ている.

そこでハタと気づくのですが, 「アメリカ人」は少なくとも 2, 300 年に渡って西洋系でない人達に対して 暴虐の限りを尽くして来ていることです. 創氏改名どころじゃない. わたしゃ, この西洋キリスト教文明の持つ独特の野蛮さ, まるく言うと不寛容, その由来を知りたいのであります.

全く異なる文化を持つ人達を合わせて地球規模の多民族国家を作る, その歴史的な先例はないのかと考えると, イスラームとモンゴルを思い浮かべるわけです. こういう国は, 被支配者から見ると当然侵略者なのですが, 南北アメリカが 侵略されたときほどひどい侵略の仕方をしていない. これを事実として確認するために歴史を勉強するわけですわな. 事実です.

で, いろんな理由を考えてみるのですが, どれもしっくりこない. 大体において, 侵略者というのは文化的に成熟していないので 「先進地域」を確保すると, 文化, というより富の保存に尽力します. たとえば初期のアラブやオスマントルコやモンゴルなんかは分かりやすいのですが, 先住者をまるごと奴隷化するなどという生産性の低いことはしないで, なるべくそのまま社会を生かしておくわけです. 社会は安定しますし, 帝国が広がれば商品が流通しやすくなり生産性があがる.

ところが南北アメリカに侵略した西洋人は, 相手に文化を感じなかったから 現地の人やアフリカの人を生産奴隷にしたのか. でも, そうするとコンスタンティノープルにやってきた 十字軍や, 15 世紀にイベリア半島でユダヤやムスリムを排除した例がわからなくなる. この場合は, 成熟していなかったのは明らかに西洋の側ですから. 本来ならば占領地の文化, 社会をある程度保存したまま富を略奪する システムを作ることが合理的であり多くの侵略者がやっていることなのですが (これが上手だったのがイスラームでありモンゴルであるわけですが), 破壊して奪うだけ, 異教徒は支配原理に組み込むのではなく排除する, というように下手なんです. そういう人達によるイスラームやモンゴルの 説明を読むから, イスラームやモンゴルの本質がわからなかったというのは 余談で.

どうも西洋キリスト教文明は他者に対してシステマティックに不寛容である. さらに悪いことに, その自覚がないようである. キリスト教に原因があるようだが, よくわからん.

そう書くと, なんだかひどく偏った考え方のように思われてきますが, 西洋文明にどっぷり浸かっているから, そう思うのではないかという 気がしてならないです.

じゃあ, 「アメリカ人」という方法に, モンゴルやイスラームのような 世界支配の原理たりうる可能性はあり得るのか? これも良くわからんのですわ. 普通, ここまでお馬鹿な話をすすめると, そもそもの仮定を疑ってみるものですがね. ともかく進めましょう.

敗戦後, 「あんたもアメリカ人になるか?」と言われた日本の人々は, 「はい」って小さい声で答えたんだろうな. ここが重要なのですが, そのとき日本はアメリカに, 寛容を感じた筈です. おしまい.

4 月 5 日: ミッシェル ガニアン グループ

トップ・ミュージシャン Michael Ganian による最新の CD.
「完璧にソソる」, それがスター・アコーディオン奏者 Michael Ganian による 新しい CD を解く一つのキーワードだ. この CD のジャケットは間違いなく, その辺にいる一番普通の通りすがりの人 でさえ引き付けずにはいられないだろう. そしてこれはまさに, マーケティングと, 彼一流の, 独自の音楽の作曲との 両方において達人である Ganian がやろうとしたことなのだ. アルメニアを母国とする彼は, チェコ共和国を住む場所に選び, そして世界中のコンサートホールを演奏の場として選んだ. この 6 枚目の CD の音源は, ほんの短い間に Ganian によって作られた. そして以前の 5 枚の CD が完全に売り切れて, それぞれ 1 万枚も出荷された ことに比べても, とても良く売れている. 音楽の中身は, ジャケットの見た目が保証するもの, そのものだ. ここでは, やりたいことが全部やりつくされている. "アコーディオンの扉"というタイトルと, 豪華な金色のディスクによって, Ganian は無限の悩みを聞きやすい音楽に変えようとした. 曲によってキーとボタンの両方のアコーディオンを持ち替えて弾き, Rudolf Smahel (ベース), Vitezslav Vavrda (ドラム) そして Milan Vidlak 指揮するオーケストラという一流の演奏家との, 完璧に息があった自作の曲を披露している. 26 曲による計 70 分もの演奏で, この優秀な素質あるアコーディオン奏者は, 並外れて洗練された感性と, 信じられない, 巨匠的な技巧を見せつける. Ganian は本当に血の通った音楽家であり, プロフェッショナルだ. 彼は, 何が求められていて, 何が良い響であるかに常に気を遣っているから, その CD は容易に近付きやすい印象を与える. なんといっても, 彼はこれを, 彼自信も高く評価する 有名なフランスの音楽家, Jo Privat (ジョー・プリヴァ) に捧げているのだ. 同じくおもしろいのは音楽そのものだ. "Impeccable "," Le Chardonneret "," Le doux non","Verucchio", " Miracle"," Seine","Montparnasse bienvenue","Espana "," One smile ", " Exception ", などや他の曲にもみられる, フレンチ ミュゼット, 速いダンスのリズム, 夢見るような旋律, など. この CD の販売価格は, ほんの 6 US ドルに, 送料, 梱包料だ. ここで簡単に入手できるよ.
MICHAEL GANIAN
Ulrychova 41
624 00 Brno
Czech Republic
Fax:00420 5 41222603
http://www.michaelganian.cz
e-mail: miracles@webmusic.cz


翻訳ついでに紹介します. MI・ZU・E さん, ありがとう.

4 月 3 日: HOSHNO★EXPRESSミレニアム版?

男・星野仙一が帰ってきた?
エイプリルフールにしては, ほろ苦くも甘くせつない. .

いやあね, 4 月 1 日が土曜日だとさ, 思考停止しちゃうサラリーマンが いっぱいいるんだろうな. 「2008 年W杯は ASEAN 4 カ国共同開催」とか, 「Microsoft 3 分割」とかを, 真に受けちゃって. 商売だっていいんだよ, 組織の一員だっていいんだよ, でもさ, ものを考えることが職業の人は, 土曜日だからといって 思考停止しちゃったら, お仕舞いだと思うんだわさ. 「24 時間闘え」と言ってるわけじゃないよ. お前なんかさっさと「毎日が日曜日」になれと言ってるんじゃないよ. 土曜日になると思考停止してもいい, という根性で, それ以外の日に, ものを書いて欲しくないんですよ.

因みに, 世田谷区の公衆便所に紙があるのは, 本当に公明党の議員の 発案だそうです. 近所の緑道でおばちゃんたち集めて 拡声器使って誇らしげにその話をしていました.

4 月 1 日: 桜

今年度から世田谷区では金曜日も休日になるそうです. 区役所, 銀行などクリティカルな業種の一部の出張所, 支店では 従来どおりの業務が行われるようですが, 区立の小学校, 中学校は これで全面週休 3 日制に移行します. うちの娘も息子も大喜びです. これは昨年度, 区内のムスリム人口が 10 % を越えたことを受けて 決定されたもので, 一部公明党などから「信教の自由を侵す」と 反発があったものの, 公明党が提出した区内の公衆トイレにトイレットペーパーを 常設する条例案に賛成することと引き替えに成立したようです. わしは, この金曜休日も, トイレットペーパーも大賛成です. お蔭で自転車通勤途中でトイレにいきたくなっても, 駅前で ティッシュを受け取ったかどうかを気にする必要がなくなりました. もっとも, 本来の意図は区内の需要拡大, 交通渋滞緩和を目論だものだそうです. これで国道 246 号線沿いを通るときにマスクが要らなくなりました.

あと, 1999 年の正月に行われたある人の報告によると.

RMS どういう風の吹き回しか、PostPet を大いに気に入るが、 「やはり propriety はいかん」というわけで 急拠 GhostPet 1.0 をリリース、キャラクターは ヌー、ヤク、バイソンなどで「区別がつかん!」 「かわいくない」などと不評。

それから, 駒場の桜は満開です. とくに垂れ桜が素晴らしいです. 気がついたら葉っぱばかりになっていた, などということにならぬよう.

3 月 27 日: デモ・テープ

京大の田中先生に「論文を送って下さい」と言っていただいたので 2 編ほどお送りしたら, お返し(?)に科研費報告書をいただきました. 報告書, といっても 5 年分の原著論文 13 編によるボリュームたっぷりの 理論です. 昨日, ひでろうさんと話していて, 「デモ・テープを送ったら, 2 枚組みのアルバムをいただいたようなもの」 と例えてみたら面白かった. ひでろうさんには Hezooll note のデモ・テープをいただいたのだけれど, 「デモ」なんかじゃなくて, スタジオで録音した立派なアルバムの原盤でした. 上記のリンクから, 音質は良くないけど聞くことができます. 早くリリースされないかなぁ. わしは Penguin Fly が大好きです. 作った当人たちから話を伺うのは何よりも面白いです.

3 月 27日: 「越前竹人形」を観た

ひょんなことからお世話になった内田匡彦さんが, お芝居の制作を されているということで, 和泉龍飛人さん主宰の劇団「陽飛」の 公演「越前竹人形」を観にいった. もとは水上勉作の小説だということだったが, 幸い原作を読んで いなかったので, 原作は買ってみたものの鞄に入れたままで, まっさらの頭で観た.

時代は大正, 福井県の寒村に住む小男の竹細工師 喜助が 美しい女 玉枝と出会う. 喜助は玉枝の存在にインスピレーションを得, 竹人形という新しい芸術にのめりこむ. 創造力の源は喜助が玉枝の中に母を見出したことであり, それだから玉枝を抱くことができない. そんなすれ違いの生活の中に現れた京都の商人 忠平に玉枝は身をあずける. たった一度の過ちのために玉枝は妊る.

と, 芝居の前半をまとめてしまうと, 世紀末ドイツの詩人 デーメルの「浄夜」を思わずにはいられない.

月夜の林の中を男女が歩く. 女は男に告白する. 「私は妊っていますが, その子はあなたの子ではないのです. たった一度の過ちのために今や人生が私に復讐をしたのです. 」 すると, 男は女にいう. 「ごらんなさい, あの月の光を. あの月の光に, 生まれてくる子供は浄められるのです. 」

と, 思ったら全然違った. 「越前竹人形」には, 「浄夜」のようなある意味にわかりやすい 「救い」はなかったのだった. 喜助には, 女を許す, 許さないという力強い主体性はない. ただただ, 玉枝の美しさに母性を, というより創造の源泉を感じて, 一心に竹人形を創るのである. わたしらは舞台の上の玉枝さんを ただただ見とれるばかりである. 玉枝は玉枝で, 喜助と向かいあうことを しないで, ただただ罪を虞れ, あろうことか忠平になんとかしてもらおうと 京都に向かう. そして忠平に見捨てられ, ついに辿りついた宇治川で, 胎児は流れてしまうのである. 流す, のではなく流れてしまうのである.

妻に母性を求める男, 宇治川の冷たい速い流れ, そう, これは「源氏」の, あるいは「陰翳礼讃」の漆黒に浮かびあがるような, 純日本風の世界なのであった. 「越前竹人形」を取り上げたということは, 「オチ」のない芝居を しなければならないことになった, のではないかと思った. たとえば源氏物語にはオチがないように. 美しい金箔細工をあしらった 漆器を蝋燭の炎で照らすとき, 闇の中に一瞬, 息を飲むような模様が あらわれて, そして消えるように.

その点は, 脚本が良く練られていたのではないかと思う. 第一に, 隣家の与兵衛に小説にはない狂言回しの役を与え, さらに 白痴の女, 「まあ」を導入したこと. 他の登場人物とほとんど係わらないまあを 入れることによって, 舞台が客観化される. わたしらはまあを通して 舞台を「観る」という構図ができる. 谷崎の例でいうなら, まあは 蝋燭の炎に相当することになる. 原作を読んで最も感心したのは, まあが居ない, ということだった.

さらに観る. 舞台では宇治川から越前に戻った玉枝は, そのまま息絶える. 「あんたの手ェにさわった は, これがはじめてどすなァ」 と最後の言葉を残して. 台詞は同じなのだが, 小説では全体的にもっと冗長で, それだけに無力感が一層深く残る感じがする. すなわち, 越前に戻った玉枝は一時, 体力を回復するのだ. 回復し, 喜助にかしずく玉枝の姿に, 村の若者たちは さらに憧れを抱いたりする. この一時の幸福は, 偶然与えられた幸福である. 京都に子供を堕ろしにいった玉枝は, もう二度と喜助に会えないかも しれないと覚悟したはずだ. それを, 何の因果か, 越前に戻ることができた. そして, 何の因果か 2 ヵ月後, 肺病で命を落すのである. 日本一の肺病県であった, と小説家は簡潔に記述する.

原作にはこのようにオチがない, というか登場人物には 想い, あるいは情念というものはあるが, 主体性のような ものが巧妙に隠蔽されている気がするのだが, その点, 舞台は ドラマチックであった. 自害した喜助の姿を一瞬映して, 幕であった. この方法が成功しているのかどうかは判断が難しいところであるが, 確かに, 喜助は 3 年後に縊死したと小説も語る. これ以外のオチのつけようはないという気もする.

失われた「日本」を描くのは難しい. 出来そうで簡単に出来ないからだ. 自分の親のことを判るようでいて, 実はよくわからないといったらよいのか. たとえば玉枝さんが着付けをされるとき, 不覚にも異国情緒でいっぱいに なってしまった. しかし本質的に異国的なのは, 着物ではなく先に見たような 象徴主義的でも現代的でもない物語の構図である. 娼妓は室内で足袋を履かないのではないか, などと細かいことを 指摘することも出来よう. しかし, 発足したばかりの若い劇団が 他でもない「日本」の美に取り組み, 充分に意図を果たしているのを観て 素直に唸っていたのだった. 今後が楽しみなのである.

3 月 11日: ソナタ形式の不完全性

大層な題を書いてみたが, 今回の問いかけは「こーゆーことについて 書いてある本を知りませんか」という人探し, 本探しである. わしは音楽理論の研究家ではないので, この分野の本職の人に比べると 間違いなく圧到的に勉強量が足りない. どのようにして議論を組み立てたら 良いのかも, 正直よくわからない. しかし, 古典音楽を深く愛好した人なら ひょっとすると考え付くであろう素朴な疑問を提示してみたいと思うのだ. と, 書けば書くほど自然科学に対する「疑似科学」, いわゆる「ト」の 人々にありがちな言い訳と似てくるのが面白い. わしがこの問題について考えはじめたのは 15 年くらい前のことで, 適当に生きていれば誰かが教えてくれるのではないかと思っていたのだが, 残念ながらそれは甘い期待であることがわかった. 自分で質問して みなければはじまらないようなのである. この 15 年は, この質問が 質問に値するかということを悩んだ時間でもあった. 今でも, これが 質問に値するのかどうか判らない. と, 前置きをしておいて本題に入る.

これは, 簡単な問いである. すなわち, いわゆるソナタ形式って 不完全なのじゃないか. もう少し正確に書くなら, 18 世紀に誕生し, 18 世紀末にウィーン楽派によって一応完成し, 19 世紀を通してヨーロッパ諸国の作曲家が多楽章の作品を 作るときに模範とした大ソナタ形式は, 終楽章をどのように構成するのか について模範がない, あるいは解決法が多様でありすぎたために, 形式として不完全なのではないか, ということである. 一番わかりやすい例を挙げると, シューベルトがどうしてロ短調の交響曲を 未完成のまま放置してしまったのか, それはソナタ形式そのものに問題が あったのではないか, と. さらに, 大ソナタ形式の本場である交響曲や室内楽曲を聞いたり, 楽譜を 読んだりしていると, あっと驚くようなつまらないフィナーレに 出食わすことが多い. それは何故なのかという問いである. 先ほど「深く愛好した人なら考え付く」と書いたのは, このように, 考えはじめた動機があまり理論的でないからである.

長くなるので続き

3月9日: 一人で生きて行くための資料

昨日に引き続き. .

このページも誰に向かって書いているのかよく判らなくなるときが あるのだけれど, というのは何かを主張するには全てが断片的であるし, 斜めに読んで面白いとも思わないし. ただ, これだけは言えるのは, 一人で生きて行く人の参考になるかも しれないという淡い期待を持っているということだ. これもまた曖昧なことではあるが.

一人で生きて行くための資料, というのはなかなか存在しない. 多くの場合, それは何かの作品の中に隠れていたり, 誰かの 生き様を見て感じたりすることだからだ.

でも, ときどき励みに出来るような資料が欲しくなったりする. 以下は半分冗談であるが. わしが励みにしているのは, たとえば好きな詩人が 7 年で 大学を出ている, という統計(?) だったりする. 鈴木志郎康氏も, 平出隆氏も, 瀧口修造氏も, 何故か大学を出るまで ちょうど 7 年かかっている. 逆にいうと, 7 年までは OK よん, ということで 気楽にやろう. とか. 結婚するしないは関係ない, が, 子供を 3 人以上作って続けてる人は途端に少くなる, とか.

なに阿呆なこと書いておるのだ, というのが正しい反応かもしれない.

3月8日: 自営業

友達に教えてもらった サイバーエージェント の社長の日記を読んでいたら, なんだか 「ダイハード」を観終ったときような疲れを感じて面白かった. これからの会社経営, 組織の有り方を日記に書いて公開するというのが いかにも Cyber な感じがする. 良い組織のトップは, 一人で がんばらなくて人をがんばらせるのだ, といった主張はよく聞くが, 「そうじゃなかったら個人商店をやればいい」 (1999/11/28(日)23:13 権限委譲) というのには納得した. そうそう, やっぱりわしは自営業がいいって.

現代の巨大科学がはじまったのは原子爆弾を開発するための マンハッタン計画以来のことである, という科白とともに, 現代の科学はプロジェクト単位で発展しているのだという認識を 持つ人は多いのではないかと思う. 実際, 行政の目からみて 国がやってもらいたい研究とは, 癌研究や新規エネルギー関連である. 大学や研究機関の有名どころの研究室では, 中規模でも 20 人や 30 人 多いと 70 人くらいスタッフを揃えているところもある. 単純に考えて, 「兵隊」になるのは相対的に容易で, また, 兵隊になるのが食って行くための近道でもある. 何故かって, ぼんやりしていても兵隊ならば相手にして貰えるが, 旅人はそうではないからだ. 相手にして貰えるかどうかに 全てがかかっている, という業界なのである. 言葉が商品である以上, これはある程度仕方がないことではある.

先週, 大阪にいってきて, 旅人でもぼんやりしていなければ 相手にしてもらえるということを知ったのが, ささやかな成果であった. また, 大きなプロジェクトの方の仕事を見ても, どの程度ぼんやり しているかということが判別できるようになった. あたりまえのことなのだが, どんな組織にも人の濃淡がある. 結局のところ, 70 人中の 1 人だろうが 2 人中の 1 人だろうが, 後者は存在意義を主張しなければならないということ以外の違いはないのだろう.

もっとも, この「存在意義」というのは深くて悩ましい問題である. まず, 自分自身で当初から持っている存在意義と, その場その場で 自分が主張しなければならない存在意義とが, 多くの場合解離している. これは, 70 人中の 1 人であった場合は「当初から」の方だけを 忘れなければ, あとは組織としての存在意義は規定のものだから 悩まなくてよいだろう. 忘れてる人, 多いと思うんだけど. そうでない場合は, 吹けば飛ぶような存在意義を主張しつつも, より根源的な存在意義の方も練り続けなければならない. それが 次の, 脱皮した後に固くなる甲殻のような, 主張すべき存在意義となる. 吹けば飛ぶような, と書いたのは, 常に提出すべき事例が一つ程度しかないからだ.

そんなこんなで苦労はあるけれども, 自営業は楽しい. 楽しいというのは, 同僚に迷惑をかけなくていいからということではなくて, その場その場の存在意義を独占できるからだ. もう一つは, 表面から深淵へと, あるいはその逆の動きを, いったりきたりすることができるからだ. 芸術家にとってはあたりまえのことかもしれない.

生命の起源を分子論的に説明するにあたって, 分子間作用, あるいは分子内での 超構造を規定する長距離相互作用をまともに考慮しているグループはない. これは, 力学系的な見方と分子生物学的な見方の中間に横たわる大きな空洞だと 思うのだ. なぜ RNA が, と問うのと, なぜ高分子電解質が, と問うのと の違いといえば, ひょっとしたら伝わるかもしれない. 何年も前から, ずーっと考えているのだが, 中間報告は, あきらめなくてもいい, というものばかりだ. なので, 今のところの 存在意義は, 馬鹿が止まらないのはきっと貴重な現象だ, ということだけである. 自営業なので新規採用者はないけれど, クライアントは同業者だけでない ことだけは確かなのである.

3月6日: 松平維秋の仕事

大阪の往き帰り, 途中, 青空文庫 にある 松平維秋の仕事 pocket BSD「読書」で読んでいた. 道玄坂のブラック・ホークという店でレコードをかけていた人ということだった. 文章を沢山書いたのに, 何故か一冊も出版されなかったそうだ. で, 困ったことに, わしは「トラッド」を知らない. なのに, 最後まで読み続けてしまった. 知らない人を拒絶するような文章ではなかったからだ. それ以上に, なんだか, ご先祖様に出会った気がしたからだ. 因みに, この「ご先祖様」に該当する人は他に何人かいるが, 数は限られている. 皆様のご先祖様であるかどうかは良く判らないが, 是非, 読んでみて下さいな.

そういえば, この松平さんの本を読んでいて, 三浦小太郎さんのことを考えていた のだった. 三浦さんの著作を集めたものを是非, 読みたい. でも, 話題的に「トラッド」じゃないけれど, 厳しいところを突いているので 心配です. 例をあげると, 僕らのライブを聞いてくれて教えてくれたのが ポルトガルのファドと久保田早紀, ゴスペルをいくつか, ロフトプラスワン, など.

3月1日: 持ちネタ

バンドでもなんでも, 演奏する側はいつも, 一番新しいネタを演奏したい. でも, お客さんは 20 年前のヒット曲をやってくれと叫ぶ. その昔, グスタフ・マーラーがインタビューで 「あなたは自身の作品で何番目の交響曲が 一番好きですか?」と聞かれたとき, 何を聞いておるんじゃ あほんだら, と答えたという話があるけれども, 作品は常にシリーズ化される, コレクターの愛好物となる 危険に晒されておるというのは, 重々, 重々皆さんご存知でしょう. これを危険としてではなく, 喜びとしなければならない. でも, それはマンネリの恐怖と隣あわせであります.

そういう事態というのは, ヒット曲が出たら, つまりある程度のスタイルが確立された後で, 演奏する人は考えりゃいい問題なのかと思われたりは しませんでしょうか. でも多分, それは違って, 個性的な仕事をする人というのは, 生まれたときから, 最初から, この問題を考えなくちゃいけないのだなぁと, つくづく思いました. つまりですね, そのスタイルというのが 一般的じゃなければないほど, 最初から, まず, その スタイルを伝導する必要があるわけです. お客さんがわかってくれない間に, いろいろ, その 発展形を示したところで, 空回りしてしまう. なので最初から, 同じことを何回も何回も演り続ける 必要がある.

これを苦行と思っちゃいけない. うん.