オルフェウス・ゴーシュが生まれたときのこと

わしづ

 そろそろ僕らの話をしようか。

 僕がその神保町の場末のライブハウスを知ったのは、音楽をやめてしまってから4年と少し経った春のことだった。当時、僕は引越屋の運転手をしていた。春の引越ラッシュのためだけに作られた営業所の、臨時の日雇いドライバーだった。そのドライバー仲間の中で、ひときわ目立ったのが、内藤さんという人だった。それは、日雇い連中の中で4tトラックを運転できるのが彼だけだったからではなく、彼の車に乗るといつも古いラジカセからスウィングがかかっていたからだった。32才の彼は、鼻歌まじりによく子供の話をしてくれた。そして僕らはジャズの話もした。ブルーノート・レーベルで活躍した偉大なミュージシャン達の話、ジャンゴの話、。そう、神保町という街の名前が記憶の底から蘇ってきたのは、そんな話をしているときだった。

 「最近はめっきりジャズ喫茶というものが減ったねえ。今じゃあ浅草の・・でしょ、神保町の響(ひびき)でしょ、。」

 それからほどなくして営業所は店をたたみ、日雇いドライバー達はちりじりになり、僕はまた失業し、僕と内藤さんは会わなくなったのだけど、神保町に行きたいという思いだけは、桜が散って5月が来ても消えていかなかった。東京に出てくる前から、僕は本を書きたかった。科学をやりたいというのは、半分は親や世間を納得させるためだった。東京には鈴木志郎康がいて、中沢新一がいて、わけのわからない連中に満ち溢れている。だから、古本屋で買ってくる本の裏の、出版社の住所に必ずといっていいほど書いてある「神保町」という街は、どんなところだろうと想像していた。野球少年が甲子園を夢見るように、僕は神保町という名前に特別な意味を刻んでいた。

 神保町ブルーグラス・インを知ったのは、全くの偶然だった。内藤さんが教えてくれた「響」のあるはずの場所に、ブルーグラス・インがあったのだ。駅を出て、煙草屋の角を回った一本目の路地は、内藤さんの記憶に残るには、あまりに狭すぎた。後で判ったことだけど、その次の路地に「響」はあった。 けれど、「ライブハウス」であり、「アルバイト募集中」であったブルーグラス・インの魅力の方が、明らかに僕の中で勝ち誇っていた。

 神保町のライブハウスのバーテンダーになれるかもしれない、。

 ほどなく、僕はブルーグラス・インで働きはじめた。マスターの 五十嵐さん や、たくさんの素晴らしいバーテン仲間や、出入りするミュージシャンの人たちのことを書くのは、ここでは出来ない。ただ、シンガーの山口さかえさんのことだけは、少しだけ書いておくべきだろう。

 ブルーグラス・インは、本来ブルーグラスの店だ。ブルーグラスという音楽を知る人も今ではそう多くないけど、見方を変えればとても素敵な音楽だ。アメリカのカントリーを、より技巧的に、軽快に、そして呑気にしたものだと考えれてくれればいい。編成はバンジョー、ギター、フィドル、マンドリン、ウッドベース、たまにスチールギター、と全てストリングス。とても技巧的でそれぞれの楽器が細かく動き回るけれど、呑気だから和音はたった3つしかない。しかも、2ビートなんだ。2ビート!なんて大らかな響き!

 そんな不思議な音楽だからかどうか判らないけれど、ブルーグラスの愛好者で20代の人を日本で探すのは大変だ。いきおい、バンドマン達と僕たちみたいな若造とは、少し距離が出来る。さかえさんは、そんな中では唯一のロックシンガーだった。そして、僕らバーテンの連中にとても親しくしてくれた。彼のライブは2通りあった。「さかえスーパートリオ」という、ギターのナオさん、コーラスのユウコさんとピアノのさかえさんの3人でやるときは、店はいつもいっぱいになった。踊る人、暴れる人、見とれてる人、、。でも、僕がもっと好きだったのは、彼の弾き語りの夜だ。宣伝はとくにしない。来る人は、なんとなく訪れた人、さかえさんと話がしたくなって来た人、店の常連。だから、まばらな聴衆、というのは大袈裟だな、お客さん相手に、さかえさんはいろんな話をした。音楽の話、世間の話、ちょっとだけ大きくした面白い話。そして、話の合間に、ビリー・ジョエルやレイ・チャールズ、レノンなんかをさらりと歌う。そんな夜は、カウンターの中で僕は本物のバーテンダーになったような気分になれた。

 熊沢段と出会ったのは、2年前の2月の、そんな夜のことだった。その夜の客の数は正確には覚えていない。でも、とてもまばらで、その2日後にエジプトに行く予定のあった僕は、最後のブルーグラス・インでの夜をのんびりとした気分で過ごしていた。カウンターに座った、鳥打ち帽を被った少年は、さかえさんのライブが終わると、おもむろに、隣の席に大事そうに置いていた黒いケースからアコーディオンを取り出して、3拍子の曲を弾きはじめた。正直いって、クラシックに耳慣れた僕にとってその演奏は上手という演奏ではなかった。けれど、僕らがよく知ってる音楽に向き合うときに、つい忘れてしまいがちなある種の説得力を持っていた。僕は、後に僕らの演奏を聞いてくれて泣いてくれる人たちのように泣いたりはしなかった。そうなるには、僕の耳はあまりに批評的で閉じていた。けれど、そんな批評性を鮮やかに逆転する可能性があることを聞き取るだけの孤独は、その頃も抱えていたのかもしれない。

 鳥打ち帽の少年の顔は、さかえさんのライブで見かけることがあったので、憶えてはいたが、話をしたのはそのときが始めてだった。みんなの感想がひととおり終わったあと、熊沢段を名乗るその少年は、カウンターの中でグラスを 磨いてる僕に聞いた。

 「わっしーさんは音楽やらないの?」

 「昔、チェロをちょっと・・・。」

その瞬間、オルフェウス・ゴーシュは誕生したのだった。

 僕は、どういう音楽を二人でやるのか、すぐに想像がついた。唯一予想外だったのは、彼がその時まだ高校生だったことくらいだ。東京に出てきてから、チェロはほとんど触っていなかった。優雅にアマチュアの楽団に入るには、あまりに貧乏だったから。ショパン弾きだ、という大学の友達のピアニストに「ショパンはチェロソナタも書いているんだよ」とそそのかし、室内楽をやりまくったのは、それはそれで素敵な時間だった。ところで、チェロ弾きにクラシック以外を本業とする人が少ないのは、どうしてだと思う?ものの本には、「フィドル」になり得たバイオリン、「ベース」になり得たコントラバスと比べて、その朗々としたところがどうのこうのという話もあるけど、単純に、僕はチェロのレパートリーが、バッハからペンデレツキに至るまで素晴らしいものが多すぎたからだと思う。僕もバッハをこよなく愛するチェロ弾きのはしくれで、想い余ってコンチェルトを書いたことすらある。けれど、物理学より魔術(特定しないけど)が、吉本隆明より吉本ばななが多くの人を惹きつけることを考えてみればわかるように、クラシックだって魔術的なんだということを多くの人に判ってもらうのは大変なことなんだ。それだけの演奏技術を残念ながら持っていない。だから、「すごいねえ」と言われるより、「よかったよ」と言われるチェロ弾きに生まれ変わる瞬間を、僕は待っていたんだ。

 でも、生まれたばかりのオルフェウス・ゴーシュが、育ちはじめるのはもう少し後の話になる。

 僕らが出会った2日後から、僕はエジプトに行っ た。カレッドさんという友人に会いにいくためだ。エジプトの話も、長すぎるか ら、ここでは省略しよう。一つだけ、オルフェウス・ゴーシュにとってよかった のは、 エジプトでラバーバという胡弓に似た民族楽器を手に入れて、 行く先々で路上演奏をするはめになったことだ。エジプトの人びとは、「ラテン系」の極まったような奴等だ。子供を相手にすることを考えてくれたらいい。楽しくてしょうがない。ラバーバを裸で持って歩く東洋人なんて、日本で津軽三味線を持って歩くイギリスの人みたいなものだ。日本だったら、大抵無視で、「ちょっと一曲弾いてくれませんか」と声をかけるのが精一杯だけど、エジプトの連中は「俺にも弾かせろ」だから。駅で汽車を待ってるときも、コシャリ(ファーストフード)のスタンドで食べていても、いろんな人に、ラバーバを弾いてもらった。でも、誰一人まともに弾ける人はいなかった。おかしいでしょ?それで僕は、ストリートの味をしめた。

 さて、そんな旅のあいだ、ブルーグラス・インでは熊沢段は、偶然にも新たに可愛いチェロ弾きの女の子と出会う。二人はその年の夏まで一緒で、したがってオルフェウス・ゴーシュは卵のまま眠っていたことになる。

 卵が孵ったのは、その年の8月のあたまの月曜日の午後だ。午睡していた僕の電話に、熊沢段がやってきた。本当のことをいうと、鳥打ち帽の少年とやるユニットの話のことは、かなり忘れていた。人間なんて、なんとなく出会って、なんとなく疎遠になる。とくに、楽器をやってる人はそうでしょ。で、段はこう言ったんだ。

 「わっしー、終わりの土曜日にコンサートでチェロとデュエットしなくちゃいけないんですう、2曲、出来なかったら1曲でいいから、一緒にやってくれないですかー」

 僕はすぐに「いいよ」って返事した。そういう突発的な出演依頼はミュージシャンにはよくあるべきことだし、彼と出会ったときに心に沸いた一種の興奮までは忘れていなかったからだ。僕は8月の終わりの土曜日に、よくわからないけど彼と演奏するんだと思った。あの女の子は?、とも思った。でもそれを聞く前に、彼はもっと怖い話をした。

 「土曜日って、今週の土曜日ですよー」

 さっそく、二人は僕の家でミーティングをした。彼の持ってきた3拍子の曲のチェロパートは、あまりにも地味だったので、即興で別のメロディを追加した。安定感を出すところは、低音を強調した。でも、正直いうと、ほとんど直感なんだ。僕はクラシックでも正確に弾くことはできないし、かといって、もとの楽譜を改ざんして弾く演奏家はあまりすきではない。でも、自分たちで作った曲なら、弾いたものがいつも本物になれる。ともかく、後に「Mademoiselle Laila」(ライラ)って名づけた曲と、なんと「Yesterday」のアコースティックバージョンと、2曲の楽譜はその日の夜に出来上がっていた。その次の日も、そのまた次の日も、僕らは僕らのオルフェウス・ゴーシュについて話した。楽譜をほとんど読めない段が、次々に面白い曲を弾くのは、僕にとってはとても新鮮な出来事だった。オルフェウス・ゴーシュという名前をつけたのも、そんな新鮮な日々のいつかだっただろう。念のため書いておくと、オルフェウスはギリシア神話の竪琴弾きで、ゴーシュは言わずと知れた宮沢賢治の童話からとった。アコーディオンは、漢字で「手風琴」と書く。でも、オルフェウス・ゴーシュをやってて思ったのだけど、この「言わずと知れた」という言葉は、意外に人びとの間に壁を作っていないだろうか。一人の人が世の中の「常識」を全て身につけるには、世の中そのものが広くなりすぎたんじゃないか。

 オルフェウス・ゴーシュが最初に人前で演奏したのは、僕らが再結成(?)してから2日後の水曜日の夜だった。その日は、偶然、ブルーグラス・インではさかえさんの弾き語りの夜で、僕が仕事の日でもあったのだ。さかえさんに是非聞いてもらおうということで、僕らは店に行った。

 これはあまりに冗談じみた話なので、まったくありのままに書くけれど、その日はいつもより少し早く店に入り、リハーサルをした。リハーサルといってもステージに上がるわけでもなく、ただ単に、当時僕らはお互いに会えば合わせてばかりいたんだ。すると、ライブが始まる時間より前に、二人組みのOL風の女性が店に来た。二人は黙って聞いててくれたんだけど、さかえさんがやってきて、ライブが始まり、僕がカウンターの中に入り、テーブルのその二人に注文を取りに行くと、そのうちの一人がこう言ったんだ。

 「さっき弾いてたアコーディオンとチェロの二人組みは、どうしたんですか?」って。

 さて、さかえさんのライブが終わった後、「じゃあ、弾けよ」ということで、僕らの初の非公式ライブの時間となった。といっても、ステージに上がるのは気がひけたから、客席でやった。そして曲目は、例の2曲しかなかった。そのときだった。初めて、オルフェウス・ゴーシュ体験が起きたのは。全然知らない人たちが、それこそ涙を浮かべるような顔をして聞いてくれる。別に、技術的には大したことしていないのに。曲だって、生まれたての不格好なままだし。でも、それが本当の意味で、僕らの音楽だった。「よかったよ」ってたくさんの人が言ってくれた。こんな不思議な体験は今までなかった。

 その週の土曜日に、小さなホールで演奏した。段の師匠(?、段と師匠の関係は本人に聞いてくれ)の金子先生が主催した「アコーディオン・パラダイス」という、アコーディオン弾きばかりの祭典だった。段は、そのときアコーディオンを始めて、まだ1年くらいしかたっていない。だから当然、僕らは一番最初に弾くことになったんだけど、そのときの反響も大変なもので、名刺は貰うし、その一年後にビデオで僕らを見てファンになってくれた人もいたくらいだ。

 でも、もう、これ以上自慢するのは面白くもないだろうから、やめておくけれど、今まで書いたことは、オルフェウス・ゴーシュの小さな歴史のほんのはじまりに過ぎない。あとは、聞きに来て下さい、ということにしておこう。それからいろんなことが、もちろんあったけれど、そして僕らは多少はうまくなったけれど、一番真ん中の部分は変わらないだろう。最後に、最初の僕らだけによるライブについて書いておこう。

 その一月後に、僕らはブルーグラス・インで初のライブをやった。その日に予定があったバンドマンが出られないと、その一週間前に言われたからだ。その一週間の間に8曲くらいあわてて作って、当日は持ち曲の10曲足らずを、ステージごとに3回、曲順を変えたりMCを入れたりしてこなした。その、最初のライブに来てくれた20人あまりの人たちには、どれだけお礼を言っても足りないくらいだ。それから曲目はどんどん増えて、今ではライブに乗せきれない曲や、季節ものの曲も沢山あるけれど、聞きに来てくれる人と僕らの間の空気の色や匂いはそれほど変わっていないだろう。これだけは、どれだけメディアが発達しても、遠くにいるあなたには伝えられない、とても暖かくて気持ちの良い空気だ。

 これは話の半分だけだから、熊沢段の話も聞いてほしい。