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10 月 5 日: 飛翔と祈り

メンデルスゾーンは言うまでもなくロマン派を代表する 作曲家である.ヴァイオリン協奏曲(メンコン)の冒頭の主題は, これぞロマン派という,ロマン派の代名詞といって良い 知名度と説得力とを有する名旋律である. いわゆるクラシック音楽のファンというのは,大体はロマン派の 音楽のファンであるから,メンデルスゾーンは,一応古典派 最後の巨匠とされているベートーヴェン以上に崇め奉られて 良いような気がする.しかし実際は,ショパンやブラームス, ブル・マラの熱狂的なファンはいても,メンデルスゾーン一筋という 人にはなかなか出会えない.鈴木メソッドの子供たちは メンコンの3楽章を集団で上手に斉奏できるが,どちらかというと 彼のファンというよりスポーツ的な演奏の材料として 扱っているようにみえる.

メンデルスゾーンの何かが物足りないのだろうか. 彼の楽曲は名作揃いだ.メンコン以外にも,夏の夜の夢, 無言歌集,ピアノ三重奏の1番,スコットランド交響曲など どれもその分野を代表する名曲だ.題名を知らなくても, 結婚行進曲を知らない現代人はいない. 彼の音楽は特徴的だ.メロディそのものが特徴的だ. どう特徴的かというと,彼のメロディは「飛翔」するのである. メンコン,弦楽八重奏曲,イタリア交響曲,ピアノ三重奏の1番, どれも冒頭の主題を思い出すと,ほんの数小節の間に1オクターブ以上 かけあがっていくことに気づく.人気作に限っていえば,過半数が この「飛翔」の主題の変形だといってもいいだろう. 彼の音楽はそのはじまりにおいて一気に高揚し, 我々はとりこにされるのである. このわかり易い特徴を指摘した文献はわしの知る限りない. 「え?他の音楽家の作品だってそうでしょう」と思うかもしれないが, 意外に,第一楽章の第一主題はオクターブの中でおさまっていたり, 下降していったりする.

実はシューマンのピアノ五重奏は「飛翔」する.しかし,この 曲をリストは「ライプツィヒ=メンデルスゾーン的だね」と 軽く批判した.この曲はシューマンのピアノ入りの室内楽の 最初の作品なのだが,メンデルスゾーンを規範としたわけだ.

そう,たとえばシューマンの熱狂的なファンというのは存在する. シューマンは狂っている,いや最後まで正気だった, 嫁のクララがどうのこうの,などと延々と語れる人は, 大体においてメンデルスゾーンのことについてはあまり 真剣に考えてくれない.メンデルスゾーンは 苦労を知らないお坊ちゃんであり,音楽は悪くはないとしても 苦悩が刻印されておらず味気ない,といった評価だろう.

そう,ロマン派の音楽には苦悩が刻印されてなければ価値が低い. 苦悩を表現するということは,個人を表現するということだ. ロマン主義というのは理性よりも感情を,客観性よりも主体性を, そして合理性よりも幻想性を追求するものだ. シューマンほど,わかりやすくこうした「個人」を表現し得た人は いない.では,お坊ちゃん育ちで19世紀のモーツアルトとして 才能を持って生まれた彼の音楽には本当に「個人」が刻印されて いないのだろうか.

結論からいうと,彼の音楽にはまさにロマン派の代表的人物として, 個人の主体が音楽に刻印されている. しかし,われわれは,とくに欧米の多数派の人々は気づきにくい. なぜかというと,彼の個人的な問題とは「神に向き合う自分」で あったからだ.

メンデルスゾーンの祖父は哲学者として有名なモーゼスだが, 名前からもわかるようにジューイッシュであり,彼が最初に ベルリンの街に入るときはユダヤ人専用の門から入った. 彼の息子のアブラハムの代になってプロテスタントに改宗し, 銀行家として財をなした.そして,われらがフェリクスを はじめとする子供たちには最高の教育をほどこした. 「体育」というのは,この頃にドイツで誕生したものだが, 若きフェリクスは体育の教育も受けている. そして,音楽の師としては厳格なバッハ主義者であり ベートーヴェンのロマン派的な音楽を好まないという 老師ツェルターが行った.

ツェルターのもとで12-14歳の頃に書いた習作的名作に 弦楽のための12の交響曲があるが,これらはそれぞれ モーツアルト風,CPEバッハ風だったりするが, 7番のメヌエットのトリオにはコラールが使われている. これはツェルターを通したバッハの影響であることは明らかだが, 世俗的舞曲であるメヌエットに宗教曲であるコラールを 組み合わせるのは,彼の独創であった. しかも,この「コラール埋め込み」は一曲にとどまらず, 14歳の頃の苦悩に満ちたヴィオラソナタ,第一交響曲の メヌエットでも試みられている.

これは単に,音響効果上の試みだったのだろうか. この世俗的舞曲と宗教曲とのぶつけあいは,その後第二交響曲 「賛歌」で異例の形をとってあらわれる. すなわち,この曲は通常の交響曲の第一〜第三楽章の短いものが あり,その後に長大なカンタータ的な合唱つき宗教曲が続く. その第二楽章のスケルツォが,きわめて感傷的なワルツに なっているのだ.主旋律には3度と6度をかぶせた「俗っぽい」 アレンジがなされており,まるでドヴォルザークの舞曲楽章の ようだが, これがトリオになって,コラールの主題と絡み合う. 俗なるものが天上において聖なるものと自然に融合するかのように. これが,長大な祈りの音楽の前に配置されているのである.

さらに,彼の短い生涯においては晩年といってよい,34歳で書かれた チェロソナタ第二番の第三楽章では, コラール主題が冒頭にピアノによって現れ,それに対して チェロが疑問を呈するようなレシタティーヴォを歌う. まるで,「ヨブ記」で神に正義を問う羊飼いのような歌だ. それに対して,コラール主題は答えるが,最後はレシタティーヴォ 主題が解消されない悩みを残しながらも終了する. このあと, 36歳で書かれたピアノ三重奏第二番の終楽章は,メフィストフェレスの 悪魔のワルツ的な主題ではじまり,それを駆逐するかのように コラール主題が降臨し,最後はコラール主題が勝つ.

メンデルスゾーンは,まさにその音楽の真っ只中で 神とは何かということを問うている. なぜなら,周囲の普通のロマン派の作曲家と異なり, 彼にとっては神の存在,その同一性は 自明ではなかったからだ. たとえばシューマンなどが「いやあ神は一人に決まってるだろう, で,俺の悩みを聞いてくれよ」というスタンスで 音楽を作るとしたら, メンデルスゾーンは,それ以前の大前提について, それを,個人の問題として見つめざるを得なかったのだ. 舞踏曲の主題やレシタティーヴォが彼自身であるとするなら, コラールは神だ.その神を自分の真横に置いたり, 問いかけてみたり,対決したりする. これが,感情,主体,幻想を第一とするロマン主義の立場で なくて何であろう.

こう考えると,メンデルスゾーンがヴィクトリア時代の 英国を第二の故郷と考えて,スコットランドあるいはケルト文化に 共感したことも理解できる. 実際彼は 10 度以上も渡英し,たとえばオルガン演奏および 6 曲のソナタによって,英国の近代オルガン音楽の始祖と位置づけ られている.それよりはるかに有名なエピソードとして, ケルトの祝祭についてシェイクスピアが書いた 「夏の夜の夢」序曲を16歳で書いて実質的なデビューを果たし, ケルトの「江ノ島」たるフィンガルの洞窟において有名な 序曲を書き,(この二作でシューマンなどは「ロマン派の旗手たる メンデルスゾーンは交響詩的な音楽しか作らないのか?交響曲は 古いの?」と書き残していたりするが), ゲーテ原作の異教の祭典「最初のワルプルギスの夜」をカンタータで歌い上げ, そしてケルト人の末裔たちの女王に捧げる 畢生の大作「スコットランド交響曲」を書くわけである.

ユダヤとキリストという「二つの神」の問題を解決するためには, 先に述べたコラール的な手法で問題を止揚させる,という方法以外に, 「二つの神」が誕生する以前の文化の基層に降りるという方法がありえる. それがメンデルスゾーンにとってのケルトだったといえないだろうか. たとえば吉本隆明が「南島論」において天皇制以前の日本文化の基層を 知るために沖縄について考察しているのと同じ手法である.

フェリクスが「スコットランド交響曲」に描いた物語は,自然は, 高度な哲学的問題と化してしまった「二つの神」が誕生する以前の, もっと素朴な信仰心だけで成り立っている社会を描いたものである. もちろん現実の女王メアリー・スチュワートはキリスト教徒であるが, 彼はメアリーの逸話すらもモチーフのひとつとして,結局は 自分個人の問題である神の問題から自由になる方法のひとつを 提示しているわけである.二楽章スケルツォの,バグパイプ風の5度, 草原を吹き抜ける風のような弦楽のさざなみの上に歌う, クラリネットの主題の何と自由なことよ.

この話を先日ソプラノ歌手の I 先生にお話したら, キリスト教がヨーロッパに伝わる際にケルトやゲルマンの 土着の宗教と融合した.本来,イエスが述べていたことは もっと単純に神と向き合えば良いではないかという ユダヤ教の修正であって,土着の宗教となじみが良い. 1800年の間に高度に洗練されてしまったキリスト教ではない, その時代の垢を洗い流した宗教文化として,ケルト文化に接近した のではないかと述べられた. 確かに説得力のある話だし,わしの話とも矛盾しない.

ともかく,ここまで書けば,メンデルスゾーンに個性が薄いだの 悩みがないだのと言われることはなくなるだろう. 今月末は「スコットランド交響曲」に参加させていただくのだが, 「飛翔」の主題からはじまるチェロソナタの第二番も 子育てに忙しいO君と一緒にまたやりたいなあ.

(2018.06.24追記) こうしたネタをもとに レクチャー&ライブを ここ数年行ってきまして, 2015 年は,メンデルスゾーンの回でした. フライヤーと本編では 述べたのですが,そこで 「(スコットランド)交響曲の終楽章は,ワルプルギスの第7曲の 「陽があがる」と同じテーマで終結する. 異教の神の永遠性を高らかに歌い上げている事実は,従来の 研究では指摘されていないが,キリスト教的には危険であり,日本 人にとっては危険というよりも魅力的に感じられまいか.」 と書きました.

確かに,ボーっとスコッチを聞いていると, フィナーレの最後のぼわーっと明るくなって終わる場所が, 一見,間が抜けたように感じられる演奏もあります. 暗いなら暗い曲として一貫して欲しい,という 思春期の中学生みたいな発想がそぐわない曲というのは結構あります. モーツアルトのト短調の弦楽五重奏やピアノ四重奏が, 同じ調の交響曲より残念な扱いがされているのは典型だし, チェロを弾いていると,ラロのチェロ協奏曲の第二楽章で 能天気な舞踏音楽になる部分に僕は子供の頃は間抜けさを 感じていたし,シューマンやサン=サーンスのチェロ協奏曲も 最後に明るくなって無理やり終わらせる感じもします. 逆にブラームスのピアノ三重奏第一番の終楽章は,それまで 朗らかな気分だったのに突然不幸に見舞われる感じがします.

しかし,ワルプルギスとの関連を理解していれば, 誰だって,スコッチの最後が盛大に終わることに異議を 唱えることはなくなるでしょう.こんなことは, メンデルスゾーンの生涯を多少なりとも主体的に 考察していたら判りそうなものです.というか, マイナーな曲で,多分編成上あまり実演されない ワルプルギスを聞いたら,一瞬で理解できました. スコアや CD の解説でも見たことがないし, 星野 宏美さんの大著「メンデルスゾーンのスコットランド交響曲」 にも書いてないし,これって大発見なのかと思ったりもしますが, なんだか,そう思うとフェリクスが気の毒に思われてきます.