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3月30日:白魔術、黒魔術
昨日、夕食時に「たけしのTVタックル」を見ていたら(笑)、 いよいよ1999年7の月も間近ということでテレビ的に盛り上がっている ようです。わしら70年代生まれの人間としては、気が付いたときから こういう番組は溢れていて、食傷気味なテーマだと思うのですが。 でも、95年の地下鉄テロのときも当初こうした番組の出演者と同列に 犯人の皆さんを扱っていたことを思い出すと、テレビって不気味だなぁ と思うのがノーマルな感覚だと思います。
95年当時に思ったのは、犯人に自然科学から魔術への転向者が多いということで、 どうして黒魔術に彼らが転向したのだろう、ということでした。 納得のいく説明をする人がいません。が、今でも転向者は多くて、 ただそれを束ねる人がいないだけだというのが現状だと思います。 「刷り込み」をするのは、今でも簡単だということです。
目に見えない、たとえば電磁波などというものを日常的に議論していると、 非日常の世界に転ぶのは簡単だと、説明しようとした人もいますが、 それはどうもおかしい。たとえば株価なんてものも電磁波並に 個人の日常を超越したものだと思うのですが、株屋が魔術に転向した という話はあまり聞きません。
自然科学と魔術の関係を扱っているものに科学史・科学哲学があります。 駒場では昔から盛んな学問ですが、日本全体ではお寒いようです。 わしは直接話を聞いたことは あまりないのですが、ファンとしていくつか文献を読んでいます。 ニュートンは力学と同じくらい錬金術に力を注いでいた、とか、 自然科学が19世紀の家内工業的な体質から国家規模の事業へと大きく 変貌したのは原爆のいわゆるマンハッタン計画からである、 といった話を読んでいると、魔術から現在の自然科学へと段階的に 変化していった様子が判って興味深いです。
段階的、というのがミソで、小学校の教室のうしろにかけてある 日本の歴史年表の、石器時代や南北朝あたりにひいてある斜線が 捉えどころがないのと同様、これが現実の不可思議なところであり 学問の涙ぐましいところだと思います。
で、自然科学はどう整理整頓しようが魔術の延長であることには 違いない。3月20日に書いたゲルのおっちゃんの話にしても、 多分に魔術的です。問題は、それが白魔術か黒魔術かという ことではないんでしょうか。白魔術と黒魔術の関係について、 誰も教えてくれない。どうしたら白魔術が黒魔術に変貌するのか という瞬間について、結局よく判らない。誰も教えてくれないから 教える側の問題だというのは、いささか幼児的ですが、 せめて自然科学にも白魔術と黒魔術があるんだよ、ということは もう少し宣伝されてもいいのではないかと思うのです。
3月29日:垂れ桜
ソメイヨシノはまだ4分咲きといったところですが、 駒場の垂れ桜は全開です。 昨日、夜中に花見に行ったら、桜布団の隙間から月が覗いて、 西行、あるいは源氏物語の一節のようでした。
そのあと、山手通りを歩いていたら中国茶の茶屋があって、 中でお姉さんがにこにこしながら手を振っているので、つられて 入っていきました。淡い白の「雪茶」というのと、 名前は忘れましたがとても苦いお茶を いただきました。「良薬は口に苦し」なんだって。 中国茶の作法というか道具は面白くて、 茶碗から急須まで全て湯をかけて温めるのです。もちろん、 湯でびたびたになるので、お茶道具一式を載せられるだけの 大きな盆(2段になっていて、かけた湯は下段に逃げる)もセットです。 その盆もピンきりで、和食のお膳程度のものから、テーブル大のものまで あって、立派なものでは龍や山水の彫刻がほどこされてあって、 何十万円という値がついていました。日本的なものというのは、 洗練されていくとどんどん表現を切り詰めていくという印象が あるのですが、中国はバロックなんじゃないかと、ふと考えました。 日本でも織部のように変形していくものもあるのですが、過剰に なっていく訳ではないだろう、と。
ところで、下の茶屋は、早くも閉店かな(笑)。
3月25日:茶屋
東京でも桜がちらほら咲き始めました。
わしも偉そうに、「胡朱」と号して詩人 萩原健次郎さんの ライブ連句 に参加させていただいているのですが、 7人ほど連衆がいらっしゃるので、順番が回って来るまで 茶でも飲んでいたいということで、 連衆茶屋を開きました。 もともと、コンパクトな 掲示板システムを作って、 オープンなものと会員制のものと合わせて5,6個走らせているので、 開くこと自体は非常に簡単なのですが、このような掲示板は 参加される方の気分に大きく依存するので、書き込みがなければ 閉鎖されるでしょう。 幸いなことに、萩原さんには興味を持っていただけたのですが、 他の皆様がどうなることやら、もしこのページをお読みになったら、 是非、書き込んでいただきたいものです。
もともと、わしの大好きな「死語しりとり」というページで 「死語チャット」なるものが非常に盛り上がっていたので、 連句でも似たような現象が起こらないかなぁと思って作りました。
3月20日:イスラーム的、あるいは錬金術
昨日は、立派な先生の話を聞きに行きました。 その方はMITの日本人研究者で、ゲルで生命の起源がわかる などと普段から言っておられる方なので、どんなとんでも系かと 思いきや、「生命の起源がわかる」などとさえ言わなければ十分 興味深い話でした。インテリジェント ゲルで銅イオンを選択的に 取り込む、実験を披露されたりして、アメリカで生き残るためには こういうパフォーマンスが大事なんだなぁと思いました。 でもさぁ、銅イオンを取り込むのにわざわざ新しい ゲルを使う必要なんてなくて、キレートとかイオン交換樹脂で充分じゃねぇの? それから、物理屋さんが化学実験をしたがる。 化学屋さんはいくら実験をやってもわからないので理論物理をやる。 やっぱり実験はとにかく面白いということでしょうか。
わかりやすい実験を人前で披露するのは、カリオストロが貴族の前で 錬金術を見せるのと相通じるものがあるような気がします。 そして、わかりやすくて大袈裟な話が浸透していくのは、 イスラーム的だ。世界の三大宗教で最も広がる速さが大きいのは イスラームです。それは、仏教やキリスト教よりもわかりやすいからだと 言われています。だってさぁ、「神の子であり人である」イエスって何? という素朴な疑問に、三位一体だの私に言わせれば とても屈折した思想を 語られるより、イスラームにおけるムハンマドの立場の方がよほど 分かりやすいです。分かりやすい話は速く広まる。 日本やヨーロッパで広まるかどうかは別として。 付け加えておきますと、このキリスト教的な屈折が、現代文明の一つの ベースになっていると思いますし、このキリスト教的な屈折が音楽に 現れるとき、たまらない魅力を感じます、が。
まぁ、 分かりやすいメロディを看板にしているオルフェウス ゴーシュとしては、 まんざら共感出来なくもない話です。
もう一つ、通産省的、というキーワードを得たのも収穫でした。 これは別の先生の話。役所的なものの書き方ってありますよね。 出来もしない看板を掲げたり、本当は複雑な背景を塗りつぶしたような言葉を 使ったり。配られた文書を、衆議院に勤める妻に見せて、「良く目にする 書き方でしょう」と言ってみたら、うんうん、と納得された。 ああいう文書ばかり目にしていたら、味の素がたっぷり入っている チャーハンを毎日食べるようなもので、味覚、じゃなかった思考力 に変調を来すのではないかと心配になりました。 つまり、どこまでいっても思想の基盤に辿りつけない不安がたまってくる んじゃないか、と。 役人だけじゃないか。2次資料、3次資料ばかり見ていると、どんな仕事でも そうなるかもしれませんね。。
3月18日:階層的
Linuxのページが検索エンジンに ひっかかるようになってから、そこへのアクセスが急増しました。 うーむ、確かに自分も計算機で分からないことがあったら しょっちゅう検索するので、音楽関係のページよりも沢山 見ているのかもしれないけれど、それにしても一日数十人の アクセスがある割には問い合わせも文句も共感もないので、 興味深いです。オルフェウス ゴーシュのページよりも その傾向は激しい。エッチな単語を入れるとどうなるかということは 昔やってみましたが、阿呆らしくて今は。。 具体的にどのページへのアクセスが あるかというと、loadlinとかwineといった、どちらかというと 汎用の話題に対するものが多いです。たいした情報じゃないんですが。 自分自身の興味は、新しく導入されたスーパーコンピュータが どの程度すごいのかということですが、ちょっとマニアックすぎる んでしょうかねぇ。。
あれですか、こう、なんでもいいけれどものを書くときに、 誰に向かって書くかということを、どの程度意識するものなのでしょう。 鈴木志郎康先生の現代詩の本に、うなぎ屋さんで「うな重一つ」という言葉を発することと、 喫茶店や銀行の窓口で「うな重一つ」と言うことの違いについて書いてあったような記憶があるのですが、。。最近、 言葉が散慢ですわ。
でも、どんなに散慢、希薄溶液中にあっても、DNA の周りには 対イオンが凝縮するんですね。エントロピー的には不利な筈なのに。
なんのこっちゃ。
こう、ときどきわけのわからないものとずーっとつき合っていたいことが、 ありませんか?
そう。鋭い、という話をまだ書いていないんだった。
自分が、こりゃあ鋭いと考えたことがらに対して、他人が 「鋭いねぇ」と言ってくることって、ほとんどない。 他人の鋭さについて気がつくのも、得てしてタイミングをはずしたときだ。
だからこうして、言葉や音を書き貯めていくわけだ。
ところで、先ほど、いつも豆乳を飲みながら惚けーっとする 噴水の側に座っていたところ、確かに以前はいなかった金魚が 泳いでいるのです。錦鯉は前からいた。
子供の頃、魚類に魅せられたことがあって、ヒメダカをもっと赤くしたら メダカの金魚版が出来るのではないかと、しばらく飼っていたことが あります。F1,F2,F3,...。
ある種の人に、絶対にウケる話というものがいくつかあって、 たとえば、「マグロは秒速 25 m で泳ぐ」という話。
もうちょっとだ。
でも、ここらへんで止めておいた方が面白いかもしれません。
3月16日:蛇足、あるいは猫とバッハ
わしは毎朝、妻にたたき起こされて駅まで一緒に歩くのですが、 その途中で情けない猫に出会うことがあります。 その猫は、首に紐をかけられて犬のように散歩させられているのです。 飼い主のおばさんは軽快に歩いてくるのですが、猫の方は周囲を気にしながら なんとも恥ずかしそうにとぼとぼ歩いています。 こちらも間が悪いので、なるべく目を合わせないようにしていますが、 ついつい見て笑みを浮かべてしまいます。
無伴奏チェロ組曲は、どのレコードの解説にも書いてありますが 本当に難しい曲です。ロマン派的な意味で、というか和声学的に 非常に無理がある。バロックソナタ、あるいはジャズなりロックのバンドの演奏を 考えてもらっても判りますが、チェロ一本でリズムセクションもベースも コードも主旋律も弾かなくてはならない。 この曲には、その全ての要素が一見ゴツゴツとした音符の並びの中に簡潔に 描き込まれていて音楽として必要十分だということを、 最初に世界にアピールしたのはパブロ カザルスで、 それは20世紀初頭のことだった、というのは有名な話です。が、 たまに中途半端な演奏を聞くと(自分で弾くと?)、伴奏があった方が いいのではないかという気持にふとさせられます。 無伴奏チェロ組曲のピアノ伴奏譜は残念ながら見たことがありませんが、 姉妹曲の無伴奏バイオリンのためのパルティータ第2番のシャコンヌの ピアノ伴奏譜は持っています。誰が書き加えたか知らんが、 驚くべき蛇足だ。もっとも、15年くらい前 リコーダーの合奏用にシャコンヌをアレンジしたときに参考にしましたが。。
そんな話を丁寧にした覚えはないのですが、今朝妻にふと、この曲は 19世紀には伴奏をつけ加えられて演奏されたこともあるそうだ、 という話をしました。そしたら奴はなんと言ったと思う?
「あの紐をつけられた猫みたいだね」って。
3月15日:遠方より来る
今日は雨。
先週末は大阪からやってきたピアノ弾きの友達と一緒に 延々と室内楽に興じておりました。 彼とはその昔、夜を徹していろんな曲を合わせたものですが、 今回は彼が5月に結婚するということで、演奏するベートーベンの1番の ソナタを中心に合わせました。昔のように夜の10時から朝の10時まで 弾きまくるという体力はありませんが、たどたどしくも 懐かしいものです。それにしても、1楽章だけで15分以上かかるので長い。 他にはフォーレの小品(エレジーとか子守歌とか)とか、 ドビュッシーのソナタとか。もう、気合いに対して指がついて いきませんわ(笑)。。
途中から、浜松からやってきたY社のエンジニアも参加したのですが、 やっぱりハードウェアの知識が乏しいと会話も突っ込みが足りないものと なって、うーむ、簡単なプロセッサを書けるくらいの知識が欲しいなぁと 思いました。以前、 "サイレント チェロ" の話を書きましたが、 やはり最近は擦弦楽器のエミュレータの開発が進んでいるそうです。 つまり、弓で弦を擦るときに出る音の変化をエミュレートする デバイスと音源があれば、打ち込みで使うストリングスの音にもっとリアリティが 出るだろうという話です。入力には可変抵抗を横に擦って行くような リボン コントローラみたいなものが必要になるだろうということです。面白い。 でもまぁ、製品化されても高いだろうからすぐには使えないでしょう。
3月11日:若者
5日の「黒猫のタンゴ」は間違っていました。 老川さんに指摘されました。 間違いはどんどん指摘して下さいませ。 (って、ほとんどこのページの全てが間違いだったりして、、)
4月からわしの研究室に新しいメンバーが加わることになりそうです。 駒場にやってきて苦節3年、やっと後輩が出来た。 毎年受験者はいるのですが、受からなかったり別の研究室に いってしまったり、で長い一人暮らしだった。。
一見、このページを御覧いただいている皆様とは関係ないように 思われますが、これは非常事態ですぞ。 というのは、このページもURLからわかるように、大学の資源を 使わせていただいているのです。今までわしのボスは御覧になって いないので、隠密のうちにコトは進んでいたのですが、危険度が100倍! なんだ、この wav ファイルの量は!研究に関係があるんかい?
そう、たとえば 加藤先生のページなんかも大学にありまして、とても本業と関係が あります(ぇん)が、なんたって加藤先生は助教授様。私は奴隷。
この予感をもとに、最近は学術的な話題を豊富(笑)にしておりました。 というのは嘘だけど。
とにかく、若者が理解を示してくれれば、それでコトは穏便に済むわけで、 祈りましょう、祈りましょう。
3月5日:タンゴの受容史
うん、あれについては一つ考えたのだけど、タンゴの受容の歴史の中で 面白いなぁと思った、のは、つまり昔の「小さな喫茶店」(知らねえか)なんて のは、直接フランスなりアルゼンチンから輸入されてきたんだけど、 これを第一世代とする。
そのあと、「あばれはっちゃく」のテーマとか、「黒猫のタンゴ」とかは その第一世代を聞いて育った人が作った第二世代なんですな。きっと。 本格的な和製タンゴってわけで。
で、「だんご3兄弟」になると、第二世代を聞いて育った人が作ったわけで、多分、 あれは佐藤さんは40代かなもう、とにかく第三世代なわけです。
最近は、フランスやアルゼンチンも含めて タンゴの歴史を通して眺めることが可能になっている。はやってるもんね。 その割には「だんご3兄弟」は第二世代の和製タンゴっぽすぎる。 そのへんが、わざと狙ってるんだろうけど、興味深いです。 確かに、我々の昭和歌謡のリバイバルと似ている感覚で作っているという気がする。
3月5日:「終った」ことについて
先日、計算機で高分子のシミュレーションをしている人達の学会に 行ったときの話。このページに関係するという意味で印象のあった ものは、以下のような話でした。
曰く。従来の計算機シミュレーションは終った。何故か。 計算結果の可視化で表現されている事象を単にグラフや式で 表すことによってそこに含まれていた多くの情報が欠落して しまうという問題があるからだ、と。 要するに、たとえば こんな カラフルな絵の方が こういう地味なグラフよりも、含んでいる情報が豊かで "五感に"訴えるものがあるんだ、と。絵が動いてたら尚いいね、と。 それから、"従来のシミュレーションは結果が判っているような ことを計算する。シミュレーションのモデルを作る過程で 結果に対する予想をもとにするので、出てくる結果に意外性がない" ということも主張していました。 で、じゃあ今後はどうすればいいかというと、 "五感に訴える"ということでアニメーションにBGMをつけてみたり、 "意外な着想を得る"ためにプログラムにわざと間違いを起こすような 因子を加えて、シミュレーションを行う、といった考えを披露されて いました。
こういう話題には、それぞれの専門を離れて一家言、なにか言いたくなる ものです(笑)。 わしの反論としては、シミュレーションでは予想される結果しか 出ないこともあるが、本当にクリエイティブなシミュレーションというのは 意外な結果が出るものだ、ということが一つ。 二つ目は、多様な現象を地味なグラフに表すことによって得られる 科学の威力を、まだなめちゃいけない、ということです。
一つ目については、彼は流体力学のシミュレーション屋なのですが、 多体系を扱うときの問題点が彼のシミュレーション自体に含まれている。 つまり、流体を扱うときには既に確立された手法(流れについての 偏微分方程式を作るのですが)があって、それはいわばモデルを 設定する段階で多すぎる仮定を前提にしている式をもとに作っている わけです。ということで、出てくる結果も、ある程度予想できてしまう。 でも、たとえば我々の方法のように、粒子間の相互作用として クーロンの法則(理系の高校生は皆知ってる)しか使っていないような場合は、 それが莫大な数の粒子の運動としてシミュレーションで再現した場合、 予想出来ないような結果を出すことが多々あるわけです。 いわば、 試験管の中で実験をする(=結果についての意外性を含んでいる)ことと 似たような手法としてのシミュレーションというのもありえるということです。
二つ目は、わしはどちらかというと計算機を持たずに数々の自然の法則を 明らかにしていった先人の方が、偉いと思うわけです。つまり、 可視化することは自然科学の法則を見つけ出すことの過程の一部であって、 自然科学の法則こそをゴールに持って行くというのが 科学の最大の強みなのではないか、ということ。何故かというと、 名状し難い自然の姿に人為的に意味づけを行っていった方が、 自然をそのままにしておくよりも人間にとって利益が多いという 歴史的な実績が何故だかしらんけどあるからです。 以前「ビジュアル系」という言葉を使ったけれど、それはあくまで 消極的な意味で、つまり想像力がない世代の人はビジュアル化する くらいしかとりえがないのではないかという意味で使いました。
自然の法則を見つけ出すためには五感を働かせなきゃいけないという 主張には納得できますが、結果はあくまでも、少くとも形式として、 個人差の大きい五感に頼らない方法で表されなければいけない。 というか、それ以上の方法論を自然科学は持っていないと思います。 で、それ以上の方法論を作り出すのならば、それが有意義であるという 事例を見せて貰いたくなります。
ここで話が魂の問題にいきついた。
"○○は死んだ"あるいは"終った"ということを、すぐに言いたがる人がいる。 言いたい気持はわからんでもないが、それをぐっと堪えて、黙々と職人のように 作品を作り続ける態度というのが、とくに自分の魂は若いと思っている 場合は必要だと思います。真に新しい作品というものには、 必ず何かを終らせて新しい認識に人を向かわせる力というものがちゃんとある。 別にオルフェウス ゴーシュの音楽がそういう芸術だとは言っていませんよ。 僕にとっての音楽は"救い"という要素の方が強いから。 最近はやりの言い方で"癒し"とは言いたくない。 で、黙々と作品を作り続けたあとで、"あぁ、こいつの作品のせいで ○○が終ッちまったんだ"と言われたら、それでいいじゃないですか。 高いところに立って遠くを見通すことは、作品を作る過程で 重要なこともあるが、 あんまし中途半端にそれを喋ったら、恰好悪いと思うね。 まぁ、これはとても古典的な態度だという気がする。
3月3日:かぁ〜、眠い。
やっと家に帰れる。AM 1:55。