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理学⇔工学,基礎科学⇔応用科学よりも,「研究⇔開発」の間に大きな谷間がある

理学部と工学部

最近は,理学部人気です. 日本の主な国立大学の偏差値 をみても,全般的に理学部の方が工学部よりも若干高いですし, 筆者の勤務先の兵庫県立大学もその傾向です. これは,ノーベル賞による効果だと言われています. たしかに日本人のノーベル賞受賞者 の理学部:工学部は 11:7 と,一見理学部が良いように思われますが, 江崎氏はソニーや IBM という民間企業の研究者であり, 基本的には工学系といえるし, 赤崎氏は工学部の教授でパナソニックの研究者でもありました. この二人を移動すると,9:9 で五分になります. また,有機化学の鈴木氏は,工学部の福井氏や野依氏と同様に 理学とも工学とも呼べる分野です. 結局,真の理学系と呼べる受賞者は, 素粒子論および素粒子実験の人々だけで,理工系の 18 人中, 物理学賞の 5 人しかいません. 素粒子関係以外の研究者になりたいのであれば, 理学部でも工学部でも同じようにノーベル賞を狙えるということです.

勤めながら基礎研究を行うということ

クリックで拡大 筆者の専門分野のソフトマター分野では, 理学,工学というよりも企業における研究が大変重要でした. 右図は,ソフトマター分野の偉人たちを ノーベル賞受賞者を中心に書いていますが, 大学の研究者と企業研究者と,対等だということがわかるでしょう. 界面化学の創始者であるラングミュアーなどは, 生涯 GE (ジェネラル・エレクトロニクス社) の社員でありながら, 新しい学問分野を拓き,ノーベル賞を受賞し, そしてアメリカ化学会の雑誌の名前になりました. あなたが,山田という偉大な科学者だとして「Yamada」という学術雑誌が あったら愉快でしょう. 企業に勤めながら基礎研究を行うことは可能なのです.
クリックで拡大 人には,「誰かに雇われていると,独創的な仕事ができないかもしれない」 という恐怖心があるようです.とくに,現代人においてその傾向が強く, 美術や音楽などにおいて,そういうアーティストは多いのではないでしょうか. これは,半分嘘です.筆者はハイドンという作曲家について 良く考えるのですが,彼は 30 年間,田舎の大貴族の屋敷に勤めながら, 交響曲というジャンルの創造,発展という音楽史を塗り替える 偉業を達成しました. 現代の科学者も,企業に雇われながら独創的な分野を切り開くことは可能です. 筆者の携わった研究でも,論文になったものの大半は, 企業で勤めながら行った基礎研究,としか言いようのないジャンルのものです. 投稿した雑誌も,Phys. Rev. や Faraday Disc. といった, 物理や化学の基礎研究の媒体が多いです. こういうスタイルの研究は,普通に可能です. もちろん,すぐに開発成果を求められない方が腰を落ち着けて 研究できるという意味で,中小企業よりも大企業の方が概ね有利ではあります.

基礎科学,応用科学に垣根はない

クリックで拡大 もう少し,このことを具体的に考えましょう. 右図は,「層状化合物の低摩擦機構を解析するために発明した分子シミュレータ」 です. これは物理化学系の有名な雑誌に論文 (H. Washizu et al., Faraday Disc., 156 (1), 279 - 291, (2012)) として発表していまして, 論文自体は,基礎的なものです. このシミュレータで明らかにしたことは,簡単にいうと「鉛筆の芯は なぜ低摩擦かわかった」ということです. 鉛筆で紙に何かを書いてみてください. もう一度,そこをなぞってみたら,摩擦が低いことに気づくでしょう. 鉛筆の主成分であるグラファイト (炭) という物質は, 原子スケールでみると図のように層状になっているのですが, 同じもの同士を擦り合わせたときに低摩擦になるのです. 2010 年のノーベル物理学賞の対象は「グラフェン」でしたが, このグラフェンの摩擦機構を世界ではじめて明らかにしたのが 筆者の研究です.
この研究自体は,間違いなく基礎研究です. しかし,もう一度,右の図をみてみると, 研究者の方なら気づくかもしれませんが, 一番右側の量子レベルでのパラメータ決定を 別の材料で行うことによって, この手法がグラファイト以外の低摩擦物質を探索する ツールなります. 現在,自動車のエンジン油には MoS2 (二硫化モリブデン) という層状化合物を用いていますが, モリブデンはレアメタル (値段が高い金属) ですし, 硫黄分というのは,大気環境への影響を考えると あまり添加したくない物質ではあります (微量なので問題ないという意見もある). そこで,環境負荷が低く低コストの材料を探すために, この分子シミュレーション手法を使えるわけです. そうなってくると, これは基礎科学ではなく応用科学といえるでしょう.
このように,良い研究 (自分でいうのも何ですが) は, 基礎科学的側面と,応用科学的側面の両者を兼ね備えていることが多いです. また,この研究は物理学者がやっても化学者がやっても 変わらないということにも,お気づきの方はいるかもしれません. 理学⇔工学,基礎⇔応用,物理⇔化学,こうした違いは, 自然界の神秘そのものに比べたら些細な違いでしかありません.

「研究」と「開発」の間にこそ深い谷がある

しかし,大事なことをお伝えすることを忘れていました. 上述のグラファイトの低摩擦のシミュレータでは, まだ,画期的な低摩擦物質を発見していません! つまり,この研究には学術的な価値はあるが, メーカーにおける成功した開発事例とは言えないのです. グラファイトを分散させた複合材料を設計する際の指針 (参考) にはなりましたが, 新しい材料そのものを見出すことはできていないのです. もちろん,筆者も画期的な新製品を作って儲けたいし, 会社を儲けさせたかったし, ひいては日本あるいは人類の産業を活発にして 人々を幸福にしたかったです.
開発には,研究と異なる様々な問題があります. 低摩擦材料であるならば,そのモノを発見できるか. 発見できたとしても,大量生産できるか. 大量生産できるとしても,コストに見合うか. それを適応する機械部品なりに相応しいか, そのモノは,今の社会にとって必要か. こうした,単純な材料研究にはない様々な, 周辺技術と,社会的な要因が組み合わさって, 製品というものは誕生するのです.

「研究」と「開発」が同時に成功するのは稀

ちなみに,この話をある文系の友人にしたところ, 「中村修二氏のノーベル賞受賞対象は, 研究ではなく開発なのではないか」 と述べた人がいました. 違います. あのノーベル賞は,あくまでも中村先生の 書かれた論文に対して与えられた賞です. 本当はチームプレーの成果なのではないか, という批判を目にしたこともあります. これも的外れで, ノーベル賞は特許に与えられるものではなく 研究成果に与えられるものであり, 研究成果とは論文の形で出版されたものです. 受賞対象の論文の筆頭著者(あるいは責任著者)が誰であるかによって 必然的に受賞者が決まるのです.※
別の見方をすると, この青色発光ダイオードの件では, 重要な科学的発見つまり研究成果と,開発とが, (ほぼ) 同時に成功したという珍しいケースだといえます. 普通は,研究と開発の間には,大きな谷間があり, なかなか製品開発はうまくいきません. 実用化は出来なかったけど,まあ論文にしとこうか, という発明が,企業研究所からの論文として出版されるという次第です.

シミュレーション学には,理学⇔工学, 基礎科学⇔応用科学という垣根はない

以上に述べた話は,企業あるいは大学の研究者として 生活している方々にとっては常識的なことだと思います. しかし,私自身の高校時代にはわかっていなかったし, 現在の若い皆さんもそうではないでしょうか?
当研究室の所属している 兵庫県立大学大学院情報科学研究科計算科学コース (旧シミュレーション学研究科)では, 大学院の段階から,「理学⇔工学」,「基礎科学⇔応用科学」 という垣根は存在しません. それどころか,いわゆる理系⇔文系,アカデミックにいうと 「自然科学⇔人文社会科学」という 垣根すら存在しません. 大学院では,基本的に「研究」をしても 「開発」は行いません. しかし,皆さんが就職する企業における「開発」の現場では, 理学⇔工学,基礎科学⇔応用科学という垣根は存在せず, 活用できる方法論は全て投入します. ここで勉強した皆さんは, 最初から,つまらない垣根に囚われることなく, 好きに勉強して, As you like な職業に就いて, 社会で活躍できるということです. "役に立つ" 社会人としてのストーリーを,皆さん自身で作りませんか? ⇒鷲津研究室案内

※2019年追記:今年のノーベル化学賞の 吉野彰先生の筆頭の成果は特許でした. 企業研究者に門戸が広がったと思います.






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