2008年のWhat's New!


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12 月 29 日: 廻転するコロイド粒子

うわ,びっくりした. 「北園克衛全評論集」の冒頭の「天の手袋」(1933) という評論集の 序論の冒頭に「僕は二つの円錐の中で見事に廻転する コロイド粒子のように思索したいと思った。」とあったので. わしは実はここ何ヶ月も, 「円錐の中で見事に廻転するコロイド粒子」 の物理について取り組んでいるのだけれど, まさか,ここでそんな言葉と出会うとは思っていなかった. いや,世界中でも今まさに 「円錐の中で見事に廻転するコロイド粒子」 について悩みに悩んでいる人は, ひょっとしたら自分だけかもしれない. 「円錐の中で見事に廻転するコロイド粒子」 は,難しい. これは,それくらい新しいテーマ,現実だ. 別に言葉遊びをしているのではなくて,わしの場合は この言葉には実体がある. きちんと書くと,例の業務上の守秘義務に関連して しまうので,もう何ヶ月かは書けないのだが. まさか北園も, 「円錐の中で見事に廻転するコロイド粒子」を 現実の問題として取り扱っている人が, 将来にわたっても, いるとは思わなかったのではないか. まあとにかく驚いた. 実は,今年を終えるにおいて, なかなか周囲の人が「二つ」「円錐」「廻転」 「コロイド粒子」の組み合わせ,全部大事だ, この凄さ,面白さ,威力に ついて理解してくれないので,どうしたものかと思っていた. なんだか救われた. まあ,正確には,わしは 「円錐の中で見事に廻転するコロイド粒子」を 研究している,あるいは 「円錐の中で見事に廻転するコロイド粒子」を 使って研究している, のであって,北園が言いたいのは 「二つの円錐の中で見事に廻転するコロイド粒子のように思索したい」 ということだから,客体と主体の違いはあるわけだが. それにしても,自己認識が 「二つの円錐の中で見事に廻転するコロイド粒子」とは!

そもそも北園は,四角や円筒,「2角形」だの,を愛でる人であったから 気をつけるべきだったのだが,油断していた.

「普通は本を買ったら最初から読むべきじゃないか」という 指摘はあるのかもしれない.当然だろう. しかし,実際にわしがしたことといえば,一冊限りの「全詩集」を買った上で, 隣にある同じく一冊限りの「全評論集」を買わなかったら,あとで後悔するだろうか, という問題の検討であった.奥附に「限定 350 部」,と書いてあって, これは本当に二度と会えないかもしれない,と思った. 次に悩んだのは,本当に「全評論集」だろうか,ということだった. わしは社会については鈍いと以前も書いたように怪しい私見ではあるが, 昭和の詩壇において,多分,北園は「微妙な存在」であった. 先の戦争に対してどういう態度をとるか,という点において, 「精神の強さ」が問題とされたからだ.

北園は 1902 年生まれ,1929 年デビューであって, 大戦中はバリバリの現役である. 敗戦後は,日本は間違っていたのであるからパルティザン的な 戦いを言論でもって挑んだ人々が絶賛されたわけだが, 小林多喜二のように獄中死した一流の詩人はいないため (才能を開花させる途中の若い詩人は沢山死んだが), たとえば壺井繁治は後の吉本隆明などの世代に批判され, 北園と同じ年の中野重治も積極的に大政翼賛詩を書かなかったが, 間違ってもヒーロー扱いはされなかった. 戦後の詩壇の主流となったのは, 戦争中に学徒出陣させられるような世代である荒地派といった 人々であるが,彼らの表現の出発点には戦争で死んだ仲間たちへの 鎮魂があり,否応なしに社会的な表現とならざるを得なかったし, 強烈に上の世代であるモダニストたちを批判した. モダニストの中心に北園克衛と瀧口修造がいた. 北園はあろうことか, 戦中に大政翼賛的な詩や評論を発表して, 戦後にそれを隠蔽して自己批判も転向もしなかった,などといわれた. 自ら 5 年も出征したのに荒地派とは別に孤独を守り,大政翼賛もせず, モダニストの流れを伝えたのが吉岡実であった. わし個人的には吉岡実の連作「死児」にノックアウトされたのだが, そうでなくとも,こう説明すると吉岡実の格好良い立ち位置がわかるだろう. わしの師である鈴木志郎康や吉増剛造,天沢退二郎といった 60 年代詩の人々が出てくるのは,その後である. どうでもいいが,この人々がわしの親の世代であり天沢氏の お嬢さんは大学で同学年であったりした. 話を戻すと,そんな感じで北園克衛を無批判に受け入れることは, 現代詩を判っていない,というのに近い響きがあった.

そこで,「全評論集」を手にとったときに確かめたのは, 1944 年(昭和 19 年) 刊の「郷土詩論」が入っているか, ということであった.思潮社の現代詩文庫,近代詩人編 「北園克衛」にも「郷土詩論」からは入っていなかったため, どういうものかを知りたかった. ここまで読まれた方は,「では郷土詩論はどうだったの?」と 思われるだろう.一見したところ,一言では書けない. 批判するポイントを捕まえるのは容易だ. なんたって「民族最高の理想的姿態の探求と表示」について 語っているのだから,「見事に廻転するコロイド粒子」は どうなったのかと突っ込みたくなる. また,この文章を書かせた「力」が, すなわち都市文化や西洋の否定と土着回帰,が, 後の現代アジアが独自に生み出した「下放」や「ポルポト」などと 相通じることにも一瞬で気づかせる. かといって,彼の主張する「郷土詩」はそういう位相にも定着しない. 後日,論じるべき問題と思われる.

北園の作品を最初に認識したのは,「現代詩の理解,国語教育叢書9,鈴木志郎康, 三省堂,1988」であった.志郎康先生は受験産業の増進会出版社の英語雑誌 (Z A.R.E., 後に Z E.T.) で,現代詩について連載していたのだった. 本文と読者投稿部分とがあったが,本文をまとめたのが本書である. 高校生にもわかるように文学・詩の本質を書くのは大変難しい作業であり, それに成功している稀有の例だ.今でも最良の現代詩入門書だと思う. 「ことばの関係が生み出す力」という章に, 北園の詩「記号説」が引用・解説されている. 書き手の体験や思考から離れて,ことばとことばとを並べることによって, その関係のあり方のみで詩作品を成立させることができる. この作品は, ただ,ことばを並べたような詩だが,良くみると,現実の痕跡が なるべくついていないことばが選ばれている. 最初この方法論を北園が発見したときは興奮した,それは無理がないことだ. ことばの意味を重んじる従来の文学に対して,これはモダニズムと呼ばれる. この手法は「今日,秋の肌を注文した」といった現代のキャッチコピーと相通ずる. しかし,これは志郎康先生が主張するところの,「ことばとことばとの関係が 現実を打ち消す力を生み出す」という詩の本質とは異なる. 言葉遊びを愉しむのは良いが,しかし,それで満足してはいけない. そして 「ことばと人間の関係は,人間が魂や精神を持っているからには, 生きるか死ぬかというところにかかわってくるのである. ことばが現実を打ち消す力を持たなくてはならない,それこそが詩なのだ, とわたしがいうのは,ことばが現実を打ち消して,個人個人が とらわれている現実から,その人を解放することになるからなのである. 詩は人間を根源的に解放するものでなくてはならないのだ.」と結ばれる.

ちなみに,上記の「現代詩の理解」には,北園が大政翼賛詩を書いたことや 「郷土詩」を主張したといったことは一切書かれていない. これらの知識は,荒地派の詩論や,10 冊以上も古本屋で買い集めた北川透や, 吉本隆明の詩論に書かれてあった. 今,志郎康先生の文章を読み直すと,自身が, 「北原白秋の短歌や佐藤春夫の詩に魅せられていた,少年期の私は 偶然に読んだピカソと北園克衛の詩によって,別の詩の世界があるのを知った」 (断章三つと一遍の詩,北園克衛全詩集の栞,吉岡実) と,モダニズムから出発して,じきに離れていったという 吉岡実の直系であることが良くわかる. 全体としては北園を批判しているが,どこか暖かい.

かつて,志郎康先生は我々の世代を「現実感」のない世代と評した. これは,別の人の作品に対してだが,「 ことばが指す事物の現実感が余りない. 従って,抽象力が弱い. そして,そのことを自覚している. その自覚しているというところに, わたしはいくらか驚きを感じ, 期待を寄せててしまう.」と書かれた. わしの「アジア」という詩には,こんな指摘を受けた. 「(1990 年になって,わしの) 「アジア」という作品を読んで,その「ああ,変わったな」という 印象を持った.「アジア」というような題の詩がなかったという こともあるが,自分のことを地球儀的な広がりでイメージして, そのイメージを比喩にしているところに, 開かれた明るさがある.その明るさにわたしは 新しい時代を感じるのだ. 現実からものすごく遠く離れたという明るさだ.」

今になって,この「現実から離れた明るさ」という言葉に, 1920 年代から 30 年代にかけて北園克衛や瀧口修造が 一瞬,示した「明るさ」が反映しているのではないかと思うのである. ヨーロッパで終わった戦争に対するロスト・ジェネレーションが 一種のヤケの文化を起こしている一方で, 「我国の文化が西洋文化吸収の頂点にあった過去二十年間 (郷土詩論)」 において,我が国のモダニストたちは「言語の貧困」に相対し, ともに「明るい」作品づくりにまい進した. 少なくとも,わしらは「戦後」というよりも「戦前」といった方が しっくり来る時代感覚を共有しているように思う. 新美南吉 (1913 - 1943) のように,いっそ病没したら 「郷土詩論」を書かずに済むのか. 冒頭に戻ると,同じコロイド粒子の熱雑音であっても ホワイトノイズに駆動されるのではなく, 揺動項をもう少し工夫せよ,というのだろうか.


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12 月 28 日: 神保町に行った

神保町は,わしにとって甲子園のような場所だったと 以前,書いたことがある. たとえば最近,藤が丘の白樺書房で買った本に 「新美南吉詩集,新美南吉,谷悦子編,ハルキ文庫,2008」 というのがあるが,これを出版している (株) 角川春樹事務所は 神保町に所在する.角川氏はテレビや週刊誌を見ていると怪しげな人物に 見えるが,彼は未だに神保町の住人で,「新美南吉詩集」を出しているんだ, 歌人でもあるんだ, と家人に語ると,あなたの好きな神保町の住人なら許されるのか,といわれて, いや,そもそも許すとか許さないとか,一体何の話だ,と.

親の書斎や図書館にある本に飽き足らなくなって,自分で本を探しはじめた 十代の半ば頃に,これは素晴らしい,と思った本,その多くは詩書だった わけだが,の多くは神保町生まれであった. 当時は桑田や清原(や立浪)が甲子園では活躍していたが, 一人で古本屋で発掘しまくった60年代,70年代の先人,ライバルたちの 背中には神保町と刻印されていた. これは行かねば,ということで神保町ブルーグラスインの店員, 後にバンドマンになった話は別に書いたわけだが, 先日久しぶりに神保町にいった.

再販権放棄? という不思議な売り場が三省堂書店の一角にあって, 「北園克衛全詩集,北園克衛,藤富保雄編,沖積舎,1992」 「北園克衛全評論集,北園克衛,鶴岡善久編,沖積舎,1988」 が,定価 18,000 円 (税別) のところ 6,000 円 (税別) で 文字通り叩き売っていた. 沖積舎も神保町の会社である. 神保町で働いていた頃に,「悦楽的男の食卓,西川 治,白馬出版,1988」 という,大変キザで美しい写真満載の,今から思うと大変バブリーな 食道楽本が路上で非再販本として叩き売られていて, この世におけるこの本の存在の仕方に間抜けさを感じて, 購入したことがある. 北園克衛全集を見たときに,その頃と比べて, 本を作る側の 社会的責任のようなものを嗤えなくなったことを感じた. で,ついつい買ってしまった.先月は, 「ハイドン・エディション(150CD+CD-ROM)」 というのをユーロ安に乗じて 80 ユーロほどで ドイツから買ってしまったのだが,全部で CD 230 枚分と いわれるハイドン全作品に近い割合で, つまり造形作品や単行本未収録の断片を除いた 北園克衛のほぼ全貌がわかるわけで,大変重いものを買ってしまった.

「全詩」は重い.「全詩」なんてものはロクに買っておらず, 1990 年 12 月に入手した粟津則夫訳の「ランボオ全詩」があるくらいだ. 次の春にやっと大学にうかったのだが,良く大丈夫だったものだ. 他に「全詩」を買うべきだったのは,吉岡実である. これは 1996 年に出版されていたそうだが,わしはスルーしていた. 吉岡氏は,ちょうど現代詩熱が最高潮だった 1990 年に亡くなっており, 目の前で亡くなったと実感するほど それ以前から集めていて,さらに 96 年頃はストリート音楽だのの 実践の方向にいたために現代詩には冷めていた. 今から思うと入手できなかったのは残念だ. こういう本は部数が大変少なく,たとえば北園克衛全評論集は 350 部だ. 別の意味で大変に重い 1/350 を自宅に招きいれたことになる.何か述べなきゃ. あとは,現存する詩人の中で鈴木志郎康先生をはじめ 何人か多分買うだろうという人はいるわけだが, 一体何の話だ,と.

ともかく,北園氏の全仕事の 150/230 くらいを抱えて 御茶ノ水の坂をのぼっていったら,チェロ店があったので, ついつい入っていった.前にきたのは改装前だった. 二階にあがっていくと,初対面の店員さんがやってきて 「弾いてごらんなさい」と,ドイツの 70 年ほど前の弓と イタリアの新作を触らせてくれた. 家人があとから階段をあがってきて,「別の人が弾いてるようだ」と 述べていた.そうか,これを持っているとまた別の人になれるのかと 思った.コーヒーまでご馳走になったので,以前 Grisales の スクールものを 渋谷で購入したということをお話した. それにしても,どうして最もそそる組み合わせの弓と楽器を, 自己紹介も何もしないのに出してくれたのだろう. エジプトを一月ほど放浪したあと,タハリール広場に 山のようにいて以前はつきまとってきたインチキ・パピルス売りが 全く近寄ってこなかった ことを思い出した.「買いそうだぞ」「買わないぞ」の違いはあれど, 要するに「顔に書いてある」ということか.

さらに,四谷三丁目のワインの店「サッカヴァン」に久しぶりにいって旧友と飲んでいたら, 「ワインのおつまみ ―人気店の初公開レシピ (別冊家庭画報), 世界文化社 (こちらは九段下), 2009」に ただいま食っている「じゃがいものアンチョビバターソテー」の レシピを載せた,というので酔っ払った勢いで購入. チーズや生ハムなどワインに合うものをベースにしたレシピ集だけど, 専門店のシェフならではの 盛り付けの仕方の工夫なども解説してあり,なかなか良い本であった. (自宅近所のショッピングモール内の書店にも何冊もあった. さすが家庭画報.12月31日記)


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12 月 10 日: 大人の書道

ふらっと京都にいったついでに鳩居堂の本店に寄って, 筆を二本と墨と半紙を買った.

そもそも「大人の書道」をやろうと思ったきっかけは,一,二年前, 100 円ショップで,太筆と小筆,墨と硯,文鎮と下敷き, これらを入れるケース,そして半紙を合計 8 点 840 円で そろえられるということに気がついたからである.

大人の書道は素晴らしい.何よりも,何を書くかが自由である. 「自業自得」「悶絶」「気苦労」,などとブラックな言葉を書くのが自由である. 夏休みの宿題や書き初めにはならない言葉. これはストレス解消になるかもよ. 好きな人の名前を書いてもいい.ボッケリーニを聞きながら 「没家裏尼」などと書いてもいい. 自由であるし,誰に見せるわけでもないから,下手でもいい. 上手に書けたら人に見せたくなるものだが,結論から書くと,ネットに アップするだけの品質には一枚も到っていない. 先ほどから漢字の例ばかりを挙げているが,草書が書けないから 楷書が映える漢字を書きたくなるのだ. 漢字の国の人間だと実感できる. 「悪霊退散」などと書くとすっきりする. ちなみに,今まで挙げた中で実際に書いた言葉はない. 世の中に言葉は他にも沢山ある. こんな感じだったら,何を書いてもいいのだ. こんな字を書いてみたいなあ,と思う心が愉快なのである.

100円ショップの道具は,結構大丈夫だった.大丈夫というのは, 硯を使って墨はすれるし,大理石っぽい文鎮もなかなか重厚感があり立派だ. ただ,肝心の太筆が今ひとつだった.はらいなどがボテっとなる. また,墨にしても,すっている間に手に付着する. グラファイトより安い色素はないと思うので,主成分はグラファイトだと 思うのだが,一口にグラファイトといっても, 単結晶,多結晶といろいろある. 担体が何か変なものなのだろうか. ということで,いつか本物の道具にいれかえたいと思っていた.

本物の太筆は書きやすい.間違いなく弘法さまと違ってわしは筆を選ぶ. あと,墨も何だか良い香りがする. 思い返せば,わしも10歳くらいの頃に 1,2年ほど習字に通っていたことがあった. 初段までいったが,実は出席点で貰える. 子供たちが神妙に書いている空気は良かった. そのときの匂いがする. 京都で会った,自分よりはるかに立派な字を書く友人が, 実は独学であったと知って愉快であった. どう上達するかは心のあり方次第だ. 凝りはじめたら,深みにはまりそうな道ではあるが, まあそんなに酷いことにはならないだろう. 「一人でおりこうさんに生きていける」ための趣味として, 悪くないんじゃないか?


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11 月 5 日: 帝国

わしは政治にも経済にも基本的な関心がない. 政治家にも経済関係の人にも恩人が多数いる. でも何故かは良くわからない,が,自分自身は, そういうものに対して関係がないよ,と思う. 今の職場で,「せめて人の上に立つ人は生徒会長くらいは 経験した人じゃないと」と,とある人に言われて,ああそうだわしも それなら仰せつかったことがあると思ったりもしたものの, ダメなのだ.あれが最後だった.政治はダメだ. せっかく,職人になった.研究職人というものが,どれくらい 非政治的であるか判らないものであるものの, 仕事と政治とは切り離して宜しい,という状況に自分を 置いておきたい.

でも,政治的な問題の中で唯一といっても良い,関心がある 問題はある.「誰が,自分が今生きている時代の 支配者であるか」だ.塩野七生さんが書いていたが. 「自分より賢い人に支配されるのは結構だが, 自分より明らかに愚かな人間に支配されるのはかなわない」と. これは同意である. で,現在は「パックス・アメリカーナ」の時代である. 要するにアメリカが世界の支配的な立場だということだ.

2000 年 4 月 11 日: 花見, モンゴル で書いたように,この世の中を支配する「帝国」たる 要件を満たすためには「お前も○○人になりたいか?」と 質問されたら「ああ,なりたい」と答えて,実際に○○人に なれる,というシステムが必要である. ローマ帝国の植民市になれば,ローマの文化を享受できた. モスリム (イスラーム教徒) は,現在は本来のアラブ人よりも アジア人の方が多い. イスラーム帝国は人種に対して寛容であったから広まった. モンゴル帝国も同様に,いわゆるモンゴル生まれの人だけが 「モンゴル人」なのではななかった. ソ連ですら,少数民族たるグルジア人のスターリンが 独裁者になれるくらい,この意味で帝国的であった.

アメリカ人になるためには,たとえば, 自分がそもそもどんな人種であっても, 博士号を持っていて,それなりの研究をしていたら,なれる. 実際にそういうアメリカ人に沢山会ってきた. これは世界帝国を構築するための基本的な手段なのだ. 夢を見ることができない帝国には,自分の魂を捧げられない. 帝国の支配を保障するのは,一義的には武力ではない.

一方で人は,人種的あるいは民族的な偏見からなかなか自由になれない. わしは子供の頃に "Chinese, Japanese, Dirty Knees, Look at These." と学校で言われることがあった. 中国人は釣り目で,日本人はタヌキ目, 土にスネをくっつけて正座をする人々であり, 売春婦だ,というポーズをつけてやるわけだ. 親が子供に教えるから,日本人を見ると アメリカのガキはこんなことをやりたくなるのだろう. アメリカの白人は偏見から自由ではない. でも,大人になってからはアメリカを何度訪問しても, 一度もこうしたレイシスト (人種差別主義者) 的態度に 出くわしたことはない. たとえばカナダでは,つい最近, 朝食のために入ったホテルのカフェで 注文をとりにこない (周囲の欧米人には来るのに) という レイシストのウエイトレスたちに出くわしたことがあるのだが, アメリカではない. 本心はどうあれ, こうした人種的偏見から自由になろうとする方向に 理性が向くことが,アメリカの帝国たる凄みだと思うわけだ.

株価が急落して,アメリカの時代は終わろうとしているという. 正直,どうなるのが本当なのか良くわからない. しかしながら,一つだけはっきりしているのは, 次の「帝国」を作るシステムが何であれ, 「お前も帝国の一員になれるんだよ」という期待が 持てないようなシステムには,誰も参加しないだろうということ. 日本は 60 年前に元や清のように東アジアを支配しようとして失敗したし, 現在の中国も残念ながら 少数民族に対する対応を考えるとソ連にも及ばないように見える. EU は旧植民地からより多くの人々が定住したりトルコが加盟したら, 帝国たる要件を再び備えるようにも見えるが, 彼らが帝国を作ろうとしているかどうかの意思形成を含めて, まだ先の話だろう.

「帝国」を作ったり,付き合うのは,疲れる作業である. 帝国以外の,何か抜本的なシステムを人類は考えられないのだろうか.


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10 月 19 日: エンドピンストッパー快調

2006 年 2 月 7 日: 足 で感動の出会いを果たしたダイソー「インドのお香立て06番」を 利用したエンドピンストッパー, おかげさまで絶好調である. ネットでも口コミで広がっているようで,愉快だ. あのバージョンでは,椅子に結ぶヒモを通すことによって通常の 「滑ってしまう恐れのある」エンドピンストッパーのような 形態をしていたが,二作目からは フローリングの床では ヒモは使わなくて良いことが わかり,「車内の小物が滑べらないシート」を接着剤で 直づけしていた. かれこれ,出会う人々の中で興味を示した人々に 10 個以上 渡してきた.といっても原価は全部で 缶ジュースをおごった程度の 2000 円ほどである.

最近では,コントラバスでも使えることが判明した. 後ろで弾いてるバスのお姉さんが,タオルの上で弾いてて, ズルっと滑ったので,こ,これは出番だ!とお渡しした. これで音大系列にも広がってくれることと妄想する.

「摩擦」について朝から晩まで考えに考える商売をはじめて 7 年ほど経過したわけだが,一番の社会貢献は このエンドピンストッパーであるかもしれない.

作り方を復習すると,100 円ショップのダイソーにいって 「インドのお香立て 丸型」を購入する. これは,どの店舗でも大体入り口に近い「ヒーリンググッズ」的な コーナーにある. 全体的に反りが入ってる商品もあるので, 必ず店内にある棚などの平らな面で片アタリしないかのチェックを行おう. つぎに,「車内の小物が滑べらないシート」を 車用品コーナーで探す.今回写真に掲載したものは二代目. 初代のものは,もっとツルツルだった. 最近は,写真の多孔質性のものしか売っていない. これでも大丈夫だ.しかも,4 分割しても十分なので, このシート一枚から 4 つ分の摩擦材がとれる. 作業としては,このシートをハサミで適当に切って, お香立ての裏に貼り付けるだけだ. 写真右端の「浴室用」シートは,粘着剤もついてるし 直径もお香立てと同じくらいだし,これは素晴らしいと 思ったが,購入してケースから取り出したら ツルツルで,我々の用途にはとても使えたものではなかった.


これが完成品 4 つ分.接着剤は コニシ製 ボンド 超強力接着剤ウルトラ多用途 S・U. 他のボンドでも多分大丈夫だろうが, すぐに硬まって強く なかなか調子が良いし,開封後 2 年半経ってもチューブの入口で固まってしまわない.



ところで,お教えした方の中で 「金属の部分をエンドピンのとがった先端で 貫通させてしまった」と いうケースがあったが, この用具は基本的に「エンドピン先端につけるゴムキャップ」の 使用を前提としている. そもそも音響効果的には, 裏面にゴムのついているストッパーを使うわけだから 床に振動を伝えず,悪くなるのは必至である. これは,そこまで気にしない人向けの用具である.

11 月 2 日追記:
上記の「車内の小物が滑べらないシート」であるが, 多孔質性の新しい奴は今ひとつだということが しばらく使っていたら判った. どういうことかというと,数時間連続して 演奏していたら,徐々に接着面の端からクルクルと 剥がれてきてしまうからだ. ピタっと面状を保つような張力があるものが宜しい. ということで,同じ 100 円ショップでも Seria にあったこちらの「止めピタシート」↓

が,現在ではお勧めである. 表面は塩化ビニル樹脂で中芯はポリエステルだそうである. 書いてあるとおり,インドのお香立てが「ピタッ」と止まる. 残念ながらお香立て自体は seria には売ってない. ダイソーには今もあるので,ニ店舗巡って欲しい.


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10 月 12 日: 「篤姫」のテーマ

を,無伴奏チェロのためにアレンジした. youtube でチェロの八重奏のためにアレンジしてあるのを見て, これは素晴らしい,でもこんな素晴らしい仲間がいなくても 演奏できるようにと,一人用にアレンジした. この曲の演奏は弦一徹さんで,いかにも弦楽器向きだ. 藝大にいっていたら 3 つくらい先輩だったのだろうなあと思う. それはともかく,この手の無伴奏アレンジものは 「星に願いを」「ニューシネマパラダイス」「トゥルーラブ」など 結構沢山作ってストックしている. 著作権の関係で,ネット上で公表できないが, 結婚式やストリートでときどき弾いている. いや,弾いていない. ともかく楽譜を見たい方がおられたら個人的にさしあげます.

先週,チェロ仲間の前で弾いてみたら 感動してくれたのだが,今週になって 「こないだちゃんとイントロから弾いてた?」ときかれた. いや,イントロはティンパニーや管楽器なので随分響きが違うわけだが, 楽譜上聞こえてくる主要な音は拾っています,と. 無伴奏チェロとしては,イントロの部分は カデンツァっぽくてかっこいいと思うのだが...


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10 月 5 日: 飛翔と祈り

メンデルスゾーンは言うまでもなくロマン派を代表する 作曲家である.ヴァイオリン協奏曲(メンコン)の冒頭の主題は, これぞロマン派という,ロマン派の代名詞といって良い 知名度と説得力とを有する名旋律である. いわゆるクラシック音楽のファンというのは,大体はロマン派の 音楽のファンであるから,メンデルスゾーンは,一応古典派 最後の巨匠とされているベートーヴェン以上に崇め奉られて 良いような気がする.しかし実際は,ショパンやブラームス, ブル・マラの熱狂的なファンはいても,メンデルスゾーン一筋という 人にはなかなか出会えない.鈴木メソッドの子供たちは メンコンの3楽章を集団で上手に斉奏できるが,どちらかというと 彼のファンというよりスポーツ的な演奏の材料として 扱っているようにみえる.

長くなったので続き


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9 月 30 日: 金魚・鯉・競走馬

先日, 日本大正村にいった. 若い岐阜県民の人々によると「すみません,こんなところに 来ていただいて」という感じの場所で, お世話になっている散髪店のマスターも「あっこ,おもしろい?」と いうような位置づけの場所なのだが, 秋祭りをやっていてなかなかの賑わいであった. 道中,標高が高くなっていくにしたがって,道路わきに表示されて いる温度が 1 ℃,2 ℃とさがっていく. 秋が来たのだと実感される頃に,山間の小さな町が出現する. 祭りは,観光客のため,というよりも地元の人々が勝手に 盛り上がっているという良い感じだった.

ここの 大正ロマン館に, 尾上隆治さんの遺された アコーディオンのコレクションがあった. 世界のアコーディオン,コンサーティナ,バンドネオンの類が 何十台も展示してある.なかなかに壮観である. 民俗楽器やハーモニカまである. 19 世紀のものは,左手のキーがまだついていないので, 「一人オーケストラ」ではなかったことが判っただけでも面白かった.

91 年の人生において集め続けると,これほどまでになるのかと驚く. 楽器収集といわれると, 2008 年 5 月 31 日: いろんなハーモニカ 2007 年 10 月 1 日: お小遣い楽団 など,わしも反応せざるを得ない. 以前,金魚愛好家の方に聞いた話で 「金魚・錦鯉・競走馬に狂うのは,桁が 10万,100 万,1000万と 変わるだけで本質的にはかわらない」という話があった. 要するに,自分が手塩にかけて育てた生き物を用いて 競争するわけである. スケーリング則が成り立つわけだな. 楽器収集にかんしても,尾上さんのアコーディオンコレクションは 錦鯉クラスかもしれない. 世界のどこかにいるのか知らないが,たとえば ストラディバリやパイプオルガンの収集家がいたら, それは競走馬級だと思う. という尺度でわしの楽器群を考えると, 「夜店の金魚」のコレクションみたいなものだといえるだろう.

尾上さんも,最初に集めたのは「割り箸の紙袋」だという. 幸か不幸か氏は会社経営者でもあったので, アコーディオンを集めることができた. 人生いろいろで,お財布の都合に沿って集まるものは 集まってくるのだと思う.それを愉しめばいいのだと, スケーリング則は教えてくれる (ような気がする).


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9 月 28 日: 素直

ここ 2 年ほど,近所のアマオケに職場の偉い方のお誘いで トラ(エキストラ)として参加させていただいている. 以前も書いたが,オケのチェロパートというのは 何人もチェロの人がいて,そういう意味では面白い. わしも団員になるようにお誘いをいただいているのだが, 極私的な都合から辞退している. でも本来トラというものは 時代劇に出てくる雇われ浪人「先生」のように, 演奏技術が団員よりも上であることが 基本であるから, 恐縮している.

練習では4人くらいの団員の後ろで弾くわけだが, 最前列1プルトの二人は首席奏者のIさんと団長のMさんで, お二人とも50代のベテランである. 休憩のとき,その一人から 「君の楽器はいつみてもきれいだねえ」と 言われて,ついつい「すみません」と言ってしまった. わしも本当は, 自分の楽器はルックスが美しいと思っている. わしの楽器の製造元である Grisales工房の楽器はニスでそれと判るくらい特徴的だ. しかし,ネットを見ると「中国製の白木にニスだけ塗ってるんじゃないか」 といわんばかりの中傷が散見されたりする. 確かに工房の人に実在しているはずの製作者のことを聞いたし, 実際に良い音が出て美しい姿なのだから何の文句がある?とも思う. が,最終的にはイタリアの工房に見に行きたいとも ひそかに思っている. そんな複雑な感情が「すみません」という言葉になった.

練習が終わったら,今度はもう一人の方に 「君の音は大きいから弾きやすかったよ」と言われて,また 「すみません」と答えてしまった.怪訝な顔をされた. これも,ヴァイオリン族の楽器を知る人は知っていると思うが, わしのような新作楽器は音量は十分のものは探せるが 所謂オールド楽器が持つ「シルバートーン」は出ない. 予算が100万円台だと,それなりの古い楽器は流通しており シルバートーンが出るが, 音量が足りない.音が大きくて,シルバートーンが出る楽器というのが 理想的な楽器で,こういうものの値段は天井知らずだ. が,上記の言葉をくださった方はそういう「鳴る」楽器を持ってる方だ. そんな複雑な感情が「すみません」という言葉になった.

素直に考えたら,「かっこいいじゃん」「いけてるじゃん」と 言われているわけで,変に恐縮するのはおかしい. 言われた言葉を,素直に受け止めたらいいだけだ. 大人になっても素直な人というのは,なかなか見かけないわけだが, 願わくば,素直に生きたいものだ.


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9 月 23 日: 極私的

文学における師であると片想いでなくいえそうな人, すなわち直接習作を添削をしていただいたり 講義を受講した人は, 詩の 鈴木志郎康先生と 小説の 秦恒平先生の お二人である. お二人のタイプが全く異なるのが愉快だ. まず語彙が違う.志郎康先生は,日常的で平易なことばも 組み合わせによって詩語(非日常)になるということを示されている人であり, 秦先生は歴史や茶道といった文化的背景を背負っている言葉を用い 流麗な筆致をもって作品を構成される. まあ例外も多く, 世の中をたった二つに分けて考えるのには無理がつきものだが, 詩や小説を書こうと思うときに真っ先に直面するのは 語彙の貧困という問題であるから, お二人の最大の違いとして挙げさせていただいた.

逆に,お二人に共通する点が何かと思うに,「極私的」という点だ. 「二つの旅」という詩集があるが,これは,志郎康先生が 広島に旅して別れた奥様の痕跡と交流するというもので, 詩を書くということは,こういうことなのだと驚いた. 最近,秦先生もご家族の間でお辛いことがあるらしくて, そのことがwebに全部と思われるほど書かれてある.

翻って思うに,わし自身はこのサイトに何も書いてないような気がしてきた. たとえば結婚したことも書いてなく,唐突に「妻が」としているし, 最近は海外出張も多くて, ブルガリアスイス のとき以上に素晴らしい出会いがあるのだが, いつ誰にお会いしたのかを書くのも控えている. さらにいうと,今年一番嬉しかったこと, 悲しかったことについて全く書いていない. 極私的,を題材として表現者として生き抜くならば こうしたことも書かねばならないだろう. どれだけ過酷なことなのだろうかと思うと,途方にくれる.


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8 月 8 日: ストリートビュー

google のストリートビュー機能がついて、これでお盆の間は 家から一歩も出ることなく旅にでることが可能になった. まだ見ていない人は一度みたらわかるが,これは相当面白い. わしはこれまで短期的な住居や友人や交際相手の居候などを除いて 15 カ所ほど引っ越している. どこか一カ所に定住したという実感がないので, だからかどうか判らないが, 昔一度でも住んでいたところを見るのが大好きだ. 近所を通ったら,なるべく寄るようにしている. 別に何がしたいというわけでもないが, その家が存続していたらうれしいし, 街並の変化を見て,時の流れについての実感が 得られるという気がする.

ということで,ストリートビューは楽しい. 今の家の一代前の世田谷の家は健在だし,その前のアパートも, さらにその前のアパートもあった. 自分の主催したイベントで最大規模の, 二子玉川の花火大会を見たアパートの前の土手とか. Fernway elementary school でググると, 30 年前に通っていた小学校が出てくる. その近所にあった自宅も出てくる. 両者とも健在だ.落ち葉が散る通学路. 同じ30年ほどでも日本の家はすぐに壊してしまう. 洛北高校は健在なのに,その近所の下鴨の家はない.

NHK の BS 放送がはじまった頃,営業所のアルバイトで 街を歩いてパラボラアンテナを探すという仕事をしていた ことがあるが,このサービスがあったら多少は楽になるとは思う.

このサービスをすごくネガティブ捉えている人がいて, 声高に叫んでいるのが不思議だ. たしかに日本の家は道路からすぐにある. 現在の我が家もそうだし. それはともかく, たとえば不動産店に置いてある家の所有者名入りの 住宅地図と比べて,そんなに不気味なものだろうか. google には情報屋の親玉になりたいという野心はあるのだろう. でも,こういうことはどこかの企業・組織がいずれ チャレンジするものだろう. わしの大変お世話になっているハードディスク工学の 先駆的業績をあげられた先生の最終講義を思い出す. 半世紀前と比べて記憶媒体がとてつもなく大きくなった, その一番の例は google の航空写真であると. あれだけの情報を蓄えるために必要なディスク容量は, という感じで,講義を進められた.わかりやすい. これが 2 年ほど前のことだから, 現在だったらストリートビューについて 何かコメントをくださるのだろう.


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8 月 5 日: 山本昌広さん

の,ページがあることに気づいたのが 1998 年 12月18日:本人が書いてるぅ! と,10 年も前のことだったとは. さらに驚くことは,このときはまだ 100 勝あまりと, 昨日の偉業までの半分の道のりだったこと. いやはや,おめでとうございます,だし, やっぱり中年の星だ.

自分は今中さんとタメなのだが,うだつの あがらない浪人だのをしているときに 今中は何て立派なんだろうと思っていた. それから,あっという間に引退してしまって, 第一線の厳しさのようなものを感じた. 最近の希望は同じくタメの正捕手,谷繁さんなわけだが, まあとにかく継続中だということだ.

今読み返してみたら,10 年ネタが 3 連発している.


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7 月 23 日: 立派なビル

京王八王子駅ビルで通り魔殺人があったが,あのビルは 10 数年前 に作ったビルだ.

正確にいうと,友人の K 君に誘われてダクト職人さんの下で 日雇いとして働いた現場だ.毎朝,職人さんたちと整列して ラジオ体操をして,ヘルメットよし,安全帯よし, 今日も一日がんばろう!と,言いながら作った. それ以前は,主として掃除やサービス、運送関係の仕事を することが多かったので, 大きなものを作るって、こういう感じなんだと思った. 犯人は「大きな事件を起こしたい」と言っているようだが, この立派なビルの中で無防備のお姉さんをいきなり刺すことが どんな大きなことなのかと,思うと,


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7 月 8 日: 続けること,続くこと

今年の秋の物理学会で職場の共同研究者の若者君が発表するということで, 公開されたプログラムを眺めていたのだが, 10 年以上前から発表している同世代の顔ぶれが散見されて,うれしかった. わし自身の研究分野は, ホヤについての幻の研究成果となった分子生物をのぞくと, 生物物理→高分子→機械とかわってきたのだが, 同業者で物理学会をベースにしている人は多いので, 領域 11 だとか 12 だとかに先輩後輩や知人が多い. お,この人もこの人も生き延びていたか,という感じである. 単著で発表している人は馬車馬じゃない感じがして,なお良いし, カタカナ所属のポスドクであっても,生きておられて良かったと思う.

究極的にいえば, 科学技術において知的財産を生み出すということは論文を書く (技術に関しては特許) ということなのだから, 口頭発表する場である学会はどうでもいい. 論文を書き続けている間が生きている間ということなのだ. そうであっても,学会に顔を出してくれるとうれしい. やっぱり,10 年一昔というのは本当なのかしらん. 今まで,あまりこういう感慨を抱くことはなかった.

話は変わって, 先日,400 年余り続いたお寺の住職が代替わりする記念会で チェロを弾かせていただいた. わしは門徒でもないのだが新住職の友人ということで めでたい席に臨席させていただけた. 印象的だったのが,400 年続いたのは 住職だけでなく門徒の皆さんとともになのです, という先代住職のご挨拶と, 普段なにげなく接している皆さんのお顔が 脈々と生きつがれている結果であり 貴いということを考えると涙が出てくる,と いう新住職のご挨拶であった. このような「続くこと」について考えると,そのための努力や 超自然的な力について想像して,途方に暮れる. 考えてみたら,自分の命についても,何十億年の進化の果てに, 人間になってからも何万代にもわたる親の思いの脈の 最果てに自分の小さな存在があるのである. 続けること,続けられることについて考えると 涙が出てくる.


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6 月 20 日: Mac 派になった

わしが出版社の編集者から理工系の研究者に転職した理由は, 研究をしたかったということもさることながら, 「キーボード中毒」であったことが,実はかなりの割合で真実である. コーヒー中毒,ニコチン中毒 (これは克服した),アルコール中毒 など様々な中毒を抱えていたわけだが,その中でも キーボード中毒は重い. ところが,書籍編集者というものは,思ったよりもキーボードを叩いていない. 最大手でない限り編集部員は校閲者も兼ねるので多くの時間を ボールペンを持って校閲に割いているし, 切った貼ったの版下を作る作業もかなりある (昨年日本の出版社で書かせていただいた高級な原稿も 写植機による版下を用いていたから,未だに理工系では 多用されていると思われる).

ともあれ,現在はめでたく一日の大半をキーボードとともに 暮らしているわけだが,これまで主として向かっている画面は X Window System (Windows 上の X サーバから各種 Linux 機を 操る) と, Windows におけるブラウザや MS Office だった. そりゃリーマンだからな.大学院の頃のように 原理主義的に生きることはできない.

しかしながら,最近の Mac は便利で十分に利便性が高い. VM Ware を使えばリーマン Windows ソフトも普通に使える. ということで,職場で Mac を主として使うことにした. といっても,圧倒的に使用頻度が高いのが emacs, Mew, TeX, gnuplot, Firefox, ターミナル, なわけだから,「ネイティブな UNIX 環境」ということで Mac を選んだということになろう. 不思議なものだ. キーボードも 80 年代のタイプライターにあったような ガシガシしたものからほど遠い,超薄型,おしゃれ, なわけだが,正直最重要なことではない. なんたって,MacOS は 10.5 Leopard から 正式な UNIX なのだ.ますます不思議な気分だ.

まだ一週間も経っていないが, 印象としては,「あかぬけてて UNIX 生活のしやすい OS」という感じ.そうそう,色が白っぽい画面から どんどん黒っぽくなっていって, どんどん保守的になっていく. 本当は飛び道具の沢山ある保守,という感じか. 要するに,あまり変わらないということかな.


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6 月 1 日: ボッケリーニの身体

2007 年の当 What's New! には, ボッケリーニのことを随分と書いた. 18 世紀〜 19 世紀にかけてのチェロ音楽の繁栄と展開は, ボッケリーニの悦楽と関係づけられた. ボッケリーニのフェティシズムについても, 北園克衛の詩を眺めながら関係づけてみた. 何よりも,ここ数年はソナタや協奏曲をはじめとして ボッケリーニを良く弾いている.

しかしながら, ボッケリーニの何がそんなに面白いのか,と自問自答すると, 笑みがこぼれるばかりで簡単には答えられない. 同時代の音楽,たとえばモーツアルトはどうかと考えるに, 思春期の頃にかぶれたことはあったし,作品は器楽曲は 全部聴いたし,ピアノ弾きとしてソナタや協奏曲も随分弾いたし, 室内楽やオケでチェロも弾いた. しかし,一生の友にはなり得ないのではないかと最近考えている. これは単純な話で,彼はチェロの作品をロクに書いていないから. ハイドンは最高の協奏曲を書いているけれど,まあ,2 曲だ. ピアノ弾きが,パガニーニのことを尊敬しつつもマブダチになれないようなものだ. それに比べて,ボッケリーニはソナタだけでも 20 曲ほど書いてるし, 協奏曲も 12 曲ほどある.さらに,チェロの入った室内楽曲が 何百曲もある.そして,ハイドンやモーツアルトと肩を並べる 間違いない一流作曲家だ.きわめて明確な個性がある. こんな一流作曲家であるチェロ弾きは,ボッケリーニの後には オッフェンバック,ボロディン,ヴィラ=ロボスの 3 人を挙げる ことができようが,誰とマブダチになりたいかと問われたら, まずはボッケリーニだろう.

そんな,ボッケリーニ・フェチのための素晴らしい本があることを, ふと Amazon を覗いていて知った. Boccherini's Body: An Essay in Carnal Musicology, Elisabeth Le Guin, Univ. California Press, 2006. 当 What's New! の 5 月 2 日付の写真は実は今日撮影したものだが, このペン型電子辞書の下にあるのが本書だ. GW 中に注文したものが届いて,最近読んでいる.

著者の Le Guin さんは,UCLA の音楽学の研究者で,かつバロックチェロ奏者. 本書は彼女自身が演奏した CD (主にソナタと弦楽四重奏の抜粋) がついているマルチ・メディアな作品だ. この本では楽譜を,通常の音楽書のように「読んで」分析するために 使うのではなく,「弾いて」分析するための足がかりとして使っている. 弾かなきゃはじまらない.たとえば,第一章では変ホ長調のソナタの アナリーゼが展開されるが,著者が述べるのは,ボッケリーニが どう冒頭において緊張を発生させ,それを緩和するプロセスを作りこんで いるかを,右腕の動作,左手親指の動作,胴体との関係 などを緻密に叙述することによって示していく. このように,この本では,まさにボッケリーニのチェロは ボッケリーニの肉体と魂の出先機関であることを実証する. こういう音楽の分析の仕方は,どれくらい学術的に異端であるのかは 知らないが,以前, 1999 年 12月10日: 貪欲 で「わしのチェロがわしの脳味噌の出張機関だ」と述べた わしにとっては,とても納得できる議論の方法である. いや,だってボッケリーニのソナタは, いわゆる動機の展開だとか,ドイツ流の,由緒正しい 諸井三郎流の切り口では 何も面白くなくて (古典派時代に循環形式を発明したのは ボッケリーニであると本書には述べてあるが), 弾いて楽しいんだから. その,楽しいという理由が,心理学的な緩和過程の積み重ねだからだ, という分析の切り口はなるほどと思うわけだ.

本書と, 2007 年 9 月 15 日: 文献 の "One hundred years of Violoncello" とは,わし自身で翻訳したいくらいチェリストにとって大事な文献じゃないかしらん. Prieto さんの自伝やポッパーの伝記,ドヴォコン一曲の分析のために 丸一冊費やしたものなど,他にも未翻訳の興味深いチェロ本はあるわけだが, それらを差し置いてこの二冊は三木敬之さんなら 翻訳していたんじゃないかと思うクオリティである. こういうのって藝大教授にやる気がなかったら, 立候補制なのかなあ... (心理学の本として企画書を書いて 前の勤務先に持っていこうかなあ(笑)). 結構真面目に妄想してしまう.


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5 月 31 日: いろんなハーモニカ


文字通り,今日はいろんな口風琴すなわちハーモニカの紹介. 下から,South Band 製の C 管のブルースハープ. 音の並びはこのような感じ.

その上は, ヤマハハーモニカ NO.21B 「トレモロ」 というモデル. 音の並びについてはリンク先からダウンロードできる pdf ファイルに書いてある. この二つは,現在流通しているハーモニカの中で最も メジャーな型なのだが,残りは面白いぞ. まず,一番上のデカい奴なのだが,ヤマハの「アルトホルン」というハーモニカ. 同名の金管楽器があるので,ややこしい. トンボ楽器では現役で ,アルト・パイプ・ホルンというらしい.

ピアノの鍵盤と同じ配列でリードが並んでおり, 一般のハーモニカが吸って吐くのに対して, これは吐くだけ.

音階は広くて,弦楽器でいえばヴィオラと同じくらいの 4 オクターブある.
この楽器にヒントを得て製作されたというのが, アルトホルンの一つしたにある二本の吟詠用のハーモニカ. 詩吟の先生から譲っていただいた. アルトホルンから黒鍵を抜いて,さらに 短調における 4 (レ) と 7 (ソ) の 音を抜いた,いわゆる四七抜き音階専用ハーモニカだ. これも吹くだけで吸うことはない.

左に 4 とか 2 と書いてあるのは,詩吟における 「本」だそうで,2 本は E♭管,4 本は F 管に対応している. 右端には PAT. P. 046762 と書いてあって, どうも特許を取得しているようなのだが, 特許データベースの検索にはかからなかった (調べ方が悪いのかも). ググると, 吟詠音取笛(ぎんえいねとりぶえ) という言葉が見つかる.

ハーモニカは,クロマチックのもの以外は,出せる音符が 激しくセレクトされている. 考えてみたら,たとえば古代のトランペットや ナチュラルホルンを思い浮かべるとわかるように, 金管楽器では自然倍音による制約を受けていたり, ティンパニなどの音高つき打楽器などは音高が 限られている場合があるものの, 管楽器の中で,これほど音階をえり好みする楽器も珍しい. いや,フルートは C 管だったり,クラリネットは B♭ 管だったり するわけだが,半音階が出せる. あるいは,子供用の鉄琴のおもちゃなどは白鍵だけを選ぶことは あっても,ブルースハープのように まともに白鍵があるのは 1 オクターブだけ, という,確固たる製作者の意思を感じることは稀だ. もう少しいうと,ブルースハープの場合は音階というよりも 隣り合った和音の組み合わせが,そもそもご機嫌なのだ. だから,こんな感じの楽しい音楽についついなってしまう. ブルースハープのデモ (mp3). ブルースハープにわりと似ている No. 21B で,無理矢理 哀しげな音楽にしたのが ハ長調のハーモニカのデモ (mp3) で, これは 2002 年6 月 11 日: 習作, てか? で作った「まっくろくろのバラッド」. 一方,吟詠用のハーモニカは,何をどう吹こうとしても, 演歌っぽくなってしまうのだ. 4本のデモ (mp3). これは適当に即興で吹いてるだけ.それでも,別の「本」に持ち替えて 即興演奏してみても,やっぱり演歌になる 2本のデモ (mp3). 存在そのものが,哀しげなのだな. ちなみに,アルトホルンは吹くのが比較的難しい. 肺活量が必要でありかつ移動距離が大きいからだ.ということで, アルトホルンのデモ (mp3).

そうそう, 楽器のページ を整理しておいた.音のサンプルが意外に沢山ある. どれも適当に即興演奏しているだけで申し訳ないのだが. まだ,記事を書いていないヴァイオリン・ビオラと 三味線については,いずれも故障中ということでかたじけない. 三味線は皮が破れていて,三味線リペア的には 猫>犬の皮,だそうで. ヴァイオリンは,全面的なリペアが必要. どちらも祖母と父の遺品なので良い状態にしておきたいのだが, もうすぐピアノの調律師さんも来られるし...


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5 月 27 日: チェリスト, ピアニスト, あるいは誇大妄想狂

Martin Rummel は, 70 年代生まれのチェリストの中で最もアカデミックという名に 相応しい人だと思う. まず, ポッパーの Op.73 の練習曲をはじめとするチェロの基本的な レパートリの校訂を行い, 出版している. わしらが購入した楽譜の校訂者として見かける歴史的人物たち, クレンゲル, ベッカー, ローズ, フルニエなどと同格なのだ. さらに, 2007 年 3 月 12 日: トレーニング で書いたように, ポッパーの Op.73 などを録音している. これは凄いことで, ちょっと前までは練習曲の録音といえば 有名な練習曲集からのつまみ食いである シュタルケルの "The Road of cello playing" くらいしか なかった. ピアッティのカプリースは, 7 番などの有名な曲については オーフラ・ハーノイなどもつまみ食いで録音していた記憶があるが, 最近, ジャン=ワンが全曲を入れた. しかし, ピアッティの曲はパガニーニのカプリースのチェロ版みたいなものである. もっと練習曲・練習曲したものとしてポッパーが録音されたことは希有である. さらに, その後デュポール (弟) の 21 の練習曲も録音した. 1900 年前後に出版されたポッパーに続いて, 1800 年前後に書かれた デュポールである. すっかり, この道の第一人者である.

「なんでこんなものを録音するのか?」と, 何度も質問を受けたのだろうと思う. (ちなみに「何でこんな研究をするのか?」という質問がなされることは 分子シミュレーション界隈では多い. ) 最近デュポールの CD を入手したのだが, その解説文の中で, この質問に対する回答に関して, いろいろと 持論を展開している. これが面白い. 自分は本当はピアニストになりたい. ピアノの大ファンである. ピアノの練習曲には, 一流の作曲家が書いたものがある. チェロの練習曲については, そこまでじゃないような気がするが, 少なくとも一流の演奏家が書いたものがある. このようにピアノとチェロとを比較した上で, さらにこう続ける.
しかし私がポッパーとデュポールに親近感を抱いた点は, 彼らがリストやスクリャービン信奉者たちのような誇大妄想狂 ではない部分だ. なぜ, ピアノのヴィルトゥオーゾたちは この妄想に対してあまりに敏感で, チェリストたちがそうでないかといえば, チェリストにとっては自分一人で出来ることがあまりに少ないからだ. このため, チェリストが音楽的に生き延びるためには 協調的であらねばならない (指揮者のいるオーケストラや第二チェロとして弾く, あるいは誇大妄想狂? のピアニストたちと競演したりして). したがって, 己の音楽的な全能を信じ込んでしまうという危険については あまり問題にならない. 実際, 多数の同時代者の証言によれば ダヴィド・ポッパーは称賛され愛される性格だったし, グリューツマッハやデュポールにしても 近づきにくかったり自己顕示欲が強いといった 雰囲気の人ではなかった. (わし訳)
わしの長年のピアノの相棒の O 君に尋ねられた 「スクリャービンみたいなチェロの練習曲ってないの?」 という質問に対する答えはこれだな. 普通にスクリャービンみたいに超絶技巧なチェロの曲ときかれたら, コダーイの無伴奏ソナタのような独奏曲を挙げるか, まあグリューツマッハの練習曲は一番難しいよねえ, と答えるかしかない. チェロの先生には誇大妄想狂は少ない. 実際に Rummel の演奏を聞いてみると, 堅実で正しくて, 地味だ.

Rummel は解説文の中で, 一番難しいとされるグリューツマッハについても 「チェロ奏法の発展への寄与は大きいが, 原作への改竄癖を考えると グリューツマッハはそれほど真剣に扱う対象ではないと思われる」と 述べている. アカデミズム的に許されないのだろうな. グリューツマッハは, ボッケリーニの変ロ長調の協奏曲を 改竄した罪に問われているわけだが, 同様にチャイコフスキーのロココ変奏曲を改竄したとして非難されている ドイツ生まれのロシアのチェリスト, フィッツェンハーゲンの第二協奏曲を最近聞いた. このソロを弾いている Jens Peter Maintz は, 「フィッツェンハーゲンの協奏曲はシューマンの構成力とリストの 技法とを併せもった, ヴィルトゥオーゾ志向のチェリストたちの 溜飲を下げる傑作だ」と述べており, 作曲者のもとで行われた ロココの改変についてもいろいろ擁護している. ちなみに, チェロにおける F. リストを目指した人には オペレッタの創始者であるオッフェンバックがおり, 彼の協奏曲は誇大妄想狂のように超絶技巧で芝居がかっており, リストというよりパガニーニの 1 番に近い. オッフェンバックのチェロについては, また日を改めて述べたい.

たしかに, チェリストに出来ることは大変少ない. このためか, チェリストには他の楽器と比べて温和な人の割合が高いと思うし, ソロを楽しむより, いくつものオーケストラを渡り歩くタイプの人が多い. 孤高の誇大妄想狂のイメージは合わないのか. しかし, 先に述べたフィッツェンハーゲンやオッフェンバック, あるいは 2007 年 9 月 15 日: 文献 の "One hundred years of Violoncello" に頻出する トリックリール (1750年生まれで 1749 年生まれのデュポール弟と ほぼ同世代) など, 「こいつは狂ってるぜ」という人は探せばいる. Rummel の真面目さ (と, 抑制のきいたユーモアも好きだ) はこの世に必要だし, 是非グリューツマッハも録音して欲しいが, フィッツェンハーゲンを弾いた Maintz や トリックリールを弾いた Rudin みたいな人が, どんどん狂った協奏曲を掘り出してくれるのも期待したい.


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5 月 25 日: 無位の真人

この What's New! には, 魂の問題について, 10 年ほどつらつら書き 連ねている. 魂の問題といえば普通に考えてまずは宗教の問題なのだが, これが難しい. わしは宗教的には最初はユダヤ教の幼稚園でヤハウェに祈っていたはずだ. まずくて固いパンの記憶はある. で, 次に出会ったのがキリスト教の音楽で, 未だに神の子といえばバッハのマタイ受難曲にふと感じられるあの方のことだと 思う. 科学というものを考えはじめてもキリストに行き着く. 10代後半から20代前半にかけては, まず人の不安定な心理につけこむ 新興宗教と(文字通り)戦うために, 教団というものを作るから問題なのだ という立場から原始仏教について考えて, 次にこうした新興宗教のみならずキリスト教も相対化するために イスラームを学んだ. イスラームだけは, 他の宗教と違って教団がなぜ必要かということを 悩まずに済む. クルアーンには社会の運営の仕方が書いてあるからだ. 他の面でも, たとえば三位一体といった直観的に判りにくい仮定を措かない分, イスラームは実際的な宗教であり, (ひねくれた日本や西洋以外で) 人気が高いのも理解できる.

仏教については, 先の原始仏典で十分じゃないかという立場から, あまり深く宗派の違いについて考えるのをやめていたが, 親鸞のラジカルでイスラーム的な意味で判りやすい側面に 親近感を抱いていた. 友人が浄土真宗の僧侶だったのも幸いだった. こうした人間の持つ信仰心というものには興味を抱きつつも, 結局のところ神も仏も信じていない不心得者であっても, 阿弥陀如来なら救ってくれるような気がしている. こうした安直な信心と, 神社にいったら杜があってシンプルだが荘厳な建物 が並んでいて気持ちが良いという理由で, 日本の有名無名の神社には 人並み以上程度には通っている.

ということで, わしの宗教的な立場を簡単に記した上で, 実は葬式仏教的には臨済宗だということを考えるようになり, 最近「臨済録 (岩波文庫) 入矢義高 」などを読んでいる. 生命の衰えを感じているのだろうか? いやまあ, ずっと哲学よりは宗教の方が好きなだけだったわけだが, 禅だけは良くわからなかった. 不思議なことに, 興味もわかなかった. 親鸞やムハンマドの持つ, 詩的な雰囲気を感じなかったからだろうか. 最近, 仕事で立っていなければならないようなときには, 「禅には坐禅(一休さんのやってるアレ), 動禅(太極拳?), 立禅がある」 ということで, 修行のつもりで立っていたりして, 便利なのだが. 墓があるということで, 禅寺にも良くいってるのだが, 禅そのものについては全く語った記憶がない. そういうものなのだろうか.

目の前にいる人を信用せずに, 書籍を信用しているようで, これは今風のダメな人のようだと思うわけだが, 何かガイドをと思って「臨済録入門 井上暉堂」を読んでみた. すると, 早速「無位の真人」の部分でつまずいた.
赤肉団上に一無位の真人あり, 面門より出入す. 未だ証拠せざる者は, 看よ, 看よ.
これが有名な臨済の言葉なのだが, 持っていた岩波文庫の解説には, 無位の真人 (お前の中にいるピュアでホーリーな奴) なんてものは 存在しない. 仏はいない. というか, 仏はお前の外側には存在しない. お前の外側に仏という別のピュアでホーリーな何かがあったり, お前の内側に無位の真人がいたり, などと何か別のものを仮定したり してそれを探すな. それは修行じゃない. 今のありのままのお前自身が(強いていうと) 仏であり無位の真人なのだから. さっさと悟れ. という意味合いのことが書いてあるように思う. 「看よ, 看よ. 」というのは, 居ないだろうが, という反語だ. これは, 目から鱗が落ちる大変わかりやすい話だ.

ところが, 買ってみた「臨済録入門」をはじめとして, たとえばネットで「無位の真人」という言葉を探してみても, 「社会のしがらみなどから自由になった本当のあなたが, 無位の真人としてあなたの中にいるんですよ」というような 解説ばかりだ. 臨済は, 「無位の真人」は居ないと言ってる. 色即是空なんだから, そっちの方が判りやすいと思うのだが. うーむ.


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5 月 2 日: クイックショナリー怯儕僖廛


2 年ほど前に終の住処を得たことと関係あるかないか判らないが, 以前にも増して文献を大人買いするようになってしまった. 本業の研究関係については,定職を得てから比較的自由に買えるので 必要なものを次々と買っていたが, この方法 (ネットで洋書を買う) を趣味の領域にも適用しはじめた ために,守備範囲が広くなってしまった. たとえば,チェロに関係する日本語文献 (楽譜ではなく解説書) は 現在入手しやすいもので 10 数冊しかないので, 2007 年 9 月 15 日: 文献 に書いたようにホニャララuniversity press のものを買った方が早い. 園芸についても同様で,たとえば薔薇の本だと The Rose Expert が世界で最もメジャーだそうだ. あるいは,古い洋館を修理して住むための本や, ダイエット食をいかにうまそうに見せるかという本などの場合, 前者は日本には存在しないし,後者は上手に編集されている本を 国内で見たことがない.ということで,どんどん大人買いする.

科学の英文は読みやすい. 別にやせ我慢しているわけではなくて,科学の語彙は限定的だからだ. あるいは,英語で書かれた文章で理解できなかったら,日本語で 書いてあってもどのみち理解できない,といったら適切か. 音楽についても,知ってることしか知ろうとしなければ限定的だ. 音楽の理論の部分は科学と相通じる. もっとも,音楽には文化的背景の問題が常に存在するために, 本当だったら知っておいた方が良い語彙が沢山ある. たとえば, メンデルスゾーンの親戚が改宗したりしなかったり,の部分についての 宗教用語を常識的に知ってる必要がどの程度あるか. 建築や園芸,あるいは地誌などの雑学の世界になったら,もっと大変だ. また別の側面からいうと,園芸の本などの場合,自分ひとりで読んで 何となく理解したらいいのではなく,本の内容について家人と 語り合うべきだろう.すると,流し読みでは飛ばしていた 単語一つ一つの意味が気になってくる.

そんなこんなで最近では,寝転びながら骨休みのために読む本や 雑誌の半分くらいが英文になってしまった. ちなみに,計算機に向かっているときや, ネット上の文章の場合は eblook と lookup の組み合わせで楽ちん. emacs 上で英和辞典,和英辞典,英英辞典,thesaurus,広辞苑などを 一発で呼び出せる.しかも,元の辞書は無料だったり大昔に 入手したものだったりする. モバモバでもノートPCでも ネット越しのサーバ上でも動く. しかし,寝転びながらの場合は,計算機に手を伸ばすだけでも面倒. ほぼ完璧な emacs 環境があるというのに,今さら電子辞書を買えるか. というか,あれって入力が面倒じゃないの? 携帯電話で QR コードをパシっと写して認識させるように, パシっと翻訳してくれるツールってないのか? ひょっとして,これって実用化したら大発明?

と思って喜び勇んで妻に話したら, 「そういうのテレビで見たことあるよ」と. 探してみたら,あるではないか クイックショナリー怯儕僖廛. スキャナーから読み取って液晶に表示,という単純明快な ペン型の機械. 3.5 万かぁ.これは慎重にならねば. ということで,ビックカメラにいったが最近は中国語ネイティブの店員さん ばっかり.彼らには英和辞書の使い勝手だけは相談できないだろう,と. それ以前に,本体の展示がなかった. ソフマップにもない.というか,ここの雰囲気は随分前に 忘れかけていた秋葉原のような空気だ. ということで,思い切って通販で買ってしまった.

1 日しか使ってない印象だが,素晴らしすぎる. 本当に,スキャンして 1-2 秒くらいで辞書が表示される. スキャンのコツがわかれば,5 回に 1 回くらいしか誤読しない. というか,フォントとの相性が良ければ,ほぼ間違えない. ここまで読んで興味がわいた人は, 日本版開発元社長さんのブログ もあわせて読むといいかも.ユニークな人物だ. でも, ボーナスの社長からの手渡しは辛いなあ.. ただでさえ中小企業では社長のプレッシャーを身近に感じるものなのに. 話がそれたが, 日本語 OCR 版も出来たが,15 年ほど前の新聞社勤務の頃に日本語 OCR には 随分苦労していて,最近になってスキャナ付属品として 価格こそ劇的に下がったが 精度はあまり改善された気配がない気がするので,ローマ字読み取り専用の 英英プロを買った. 電子辞書専用機を他に使ったことがないので eblook & lookup との比較になるが, 熟語が楽に出る機能は素晴らしいと思う. ジーニアス版 だと 9.5 万語の英和辞書なのだが,英英プロの方が全体の分量が多いので こちらにした.ただ,英英プロでは英英辞典 9 種 (20万語) のモードと 英和モード (2.9 万語) の 2 つのモードが分かれている. 基本を英英モードにしておき,わからない単語があったら 英和モードに送る,という機能は便利. だが,逆のモードもあったらよかったと思った. 日本語ネイティブの我々の場合, 判らない単語があったとき,漢字二文字程度 (写真の例: carnal→肉体の) に和訳してくれたら 英英モードで文章を読むよりも理解が速い. ただ,日本語と英語をいったりきたりするので和訳に起因する 混乱もあるかもしれないが,わしはそれよりレベルが低い気がする. で,まず英和を読んで,意味が通らない場合や専門用語の固有名詞だった 場合は英英のしかるべき専門語辞典に送る,という使い方が あっても良いはずだと思う. もっとも,熟語や派生語などにもきちんと対応している 2.9 万語の英和モードでかなり満足ではある. たとえば,音楽の本や輸入 CD の解説を読んでいるときには, 欧州の地名辞典 (アメリカの地名については付属地名辞典の 精度は高い) や音楽用語辞典は入っていないために, 当該の用語はどのモードでも結局読めない. で,英和では読めないが英英だと読める単語,というのは 意外に少ない.だから,ざっと使っている限り英和モードで十分だ. もうちょっと慣れたら英英モードにしよう. ともあれ,この機械はかなり病み付きになる. ルーペをはじめて入手した老眼のおばあちゃんみたいな気分,か?


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4 月 28 日: ヴンダーカンマー

愉悦の蒐集ヴンダーカンマーの謎, 小宮正安, 集英社新書 ヴィジュアル版 (2007) が面白かった. 表紙の写真からして,ヒトデ,すっぽん,アルマジロ, ロブスターなどの生き物たちが串刺しになって干からびていて, 大層なインパクトの物体である. ヴンダーカンマー (不思議の部屋) に展示されるべきは, この世の珍奇なものどもであって,半魚人,串刺し公, 鰐,様々な動物の結石,人体のパーツによる盆栽... こういう,珍奇なものものどもについて解説された本は, 日本の出版界においてときどき出現しており, 選ばれた者のみに執筆が許されるジャンルだといえる. たとえば,澁澤龍彦,寺山修司,種村季弘,荒俣弘. 元祖は夢野久作あたり. 体操出身のテレビタレントや, 薀蓄本を書きまくる将棋士のように,時代に一人ずつ 必要とされるジャンルなんだな.

悔しいような嬉しいようなことは, 著者の小宮さんという方はわしの二つ上で,まあ同世代だ ということだ. 油断していた.このジャンルは,荒俣弘あたりで終わっている かと思っていた. 氏のこれまでの仕事は,ドイツ文学,オペラの類だそうで, その領域だけで留まっていたら普通の研究者のままであった. この,珍奇なものどものについての本を書くというジャンルは, 上に挙げた人々の経歴を考えたらわかるように, 何というか立候補制なのだな.よし書くぞ,と. でも,それぞれの人が フランス文学,短歌や芝居,ドイツ文学,小説, といったように通常の文化と呼べる領域で出版実績を 重ねた上で,おもむろに珍奇本を書いているわけで, いきなり珍奇本を書かせてもらえるわけではない. そういう意味での小宮さんにとってのカモフラージュは, ドイツ文学でありオペラだったのだろうな.

わしも嫌らしい大人になったからか しらないが,一点だけ,何かわだかまりのように感じるところがある. それは,この手の日本語で出版される珍奇本のテーマとなる対象が, 欧米とくにヨーロッパの中世,近代のものというところだ. amazon.com で Wunderkammer と入力したら, それらしい専門書が一瞬で買える. わしが嬉々として澁澤龍彦を読んでいた高校生の頃とは, この点が全然違う. 昔の東大教授は丸善に入荷された洋書を入荷直後に買い占めて, 半年ほど先の次の入荷までに自分の実験をしてしまって, 学会発表をすることによって,国内最高の地位を保っていた. どこまで本当か知らないが,そんな牧歌的な東西不均衡の時代があった. 現在の我々は,ぺいぺいであっても年に何回も欧米にいって, 叩かれながらも 自分の研究成果を相手に認めさせるために努力せざるを得ない. 書いた論文はあっという間に web に載る. しばらく経って次の仕事をしている間に別刷りが郵送されてくる. 人文学は未だに牧歌的でいいなあ,と思う. ともあれ,この世代を担う珍奇本の作者の出現を祝したい.


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3 月 19 日: iPod 増強


2004 年の 夏にいただいた iPod (4G モノクロ 40 GB) なのだが比較的最近まで現役だった.新幹線通勤をしなくなってからは それほど活躍していたわけではないのだが, 長期出張中などはやはり重宝していた.

それでも時代はあっという間に第四世代 iPod を旧式に してしまうもので,去年の秋にアメリカにいったとき 現地で出会った方が iPod touch を買っていたりして, さらには冬には来日した人が iPhone を持って いたりして,

などと書くと物欲のかたまりみたいだが,実際のところは地味な話だ聞いてくれ. まず,電池の持ちが悪くなって,1 時間くらいで消えてしまうように なった.次に,hdd がカタカタいうようになって,usb2 で windows 機に接続していても外部ディスクとしてきちんと認識 しなくなった.正確にいうと,ケーブル接続後しばらくは 外部ディスクとして使えるので, RealSync で少しずつ母艦に生のフォルダのバックアップをとり, iTunes にそれをドラッグして再構築し (何でそういうことを するかというと,自宅と別宅とで母艦を二つ持つのは不便なので iPod 側を母艦的に使っていたため,iPod から吸い上げたデータを 一箇所の iTunes に曲データ全部を再構築する必要があった), iPod の hdd を初期化して,転送したが, 結局本質的には直らなかった.

ということで, Sonnet iPod Battery for 4th Gen Black & White Display iPod のバッテリーを購入.分解し方の動画入り CD-ROM や治具までついてて 2,980 円. これで電池容量 1.2 倍. さらには,ハードディスクを TOSHIBA 1.8''HDD MK6006GAH にして,容量を 40 → 60 G と 1.5 倍にした. これが 12,700 円.ってことは,iPod Classic 80G を 29,800 円で 調達する半額ほどで,iPod をそれなりに増強できたことになる. あと 3 年くらいは使えるだろう. 素晴らしい.


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2 月 18 日: ラジオ

年始は,アタマが痛いことが連続するので なんだか最近毎年同じパターンだなあと思いながら, このページは過疎である.

ふと思い立って近所のハードオフ,にいったら, チューナー T-405W がジャンクの 3,000 円で売っていた. うちはオンキョーの INTEC という 10 年前のコンポなんだが, なんとなくチューナーはつけていなかった. 中古なんだが,他の機器と同じくらい古びていて, とてもおさまりが良い.

ラジオは,次々と知らない音楽が流れてきて,面白い. 車にもラジオはついているが,トンネルの中で中断するし, ディスプレイが壊れているし,で,CD プレーヤになっていた. もう一つチューナーつきのコンポがあるんだが, 普段はあがらない 3 階に置いてある. 子供の頃は死ぬ気でエアチェックをしていたのに, 何だろうな.


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1 月 1 日: 年賀



あけましておめでとうございます.
皆さまにとっても,よい年となるとよいですね.

この写真の「チーズ」は, 2000 年のスイス旅行 で買ってきた土産で, 本業は鉛筆削りです. 最近の年賀状は,こんな写真ばかりとっていて, そういえばこの欄には過去の写真を載せていなかったから 載せようかしらん.


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