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自動車工学には「最先端」が溢れている

はじめに

先の 自分の「ストーリー」がないと研究人生辛い の前半に書いたように, 筆者は 高校から大学に入った頃あたりまでは, 基礎科学こそ科学の中の科学であり, 一方で, 工業に関しては, 基礎と成る原理を理解する必要はあるものの, 自分が一生をかけて仕事にするようなものではない, 自分のテーマは生命の起源の探求である, などと考えていました. また,住んでいた県が自動車作りで有名な県であったため, かえって,自動車工業に携わるのは安直だと思っていました. そうではない,自動車工学も面白い,という話をします. そのような次第ですので, もし,自動車工学の面白さを十分にご存知の方は, この項目は読まなくて結構だと思います. そうではない,高校時代の筆者のような, "原理主義者" こそにお読みいただけたらと思います.

昭和の自動車産業

筆者が高校生だった 1980 年代の後半は, 日米自動車摩擦の時代でした. 日本車がアメリカで売れに売れて, アメリカの自動車産業は打撃を受けて, 自動車産業で働いている人々が, 日本車を壊す映像がテレビに溢れていました. 筆者は,1970 年代にアメリカに住んでいたのですが, 自家用車は Ford の LTD やマスタング, いわゆるアメ車生活だったので, それに比べて帰国後に乗っていた日本車が 優れているとは思えませんでした. とはいえ,自動車が日本の工業製品の代表的な存在である, ということは既に明白でした. 完成されて儲けを生み出している技術に, 最先端がある筈がない,と単純に思っていました.
一方の最先端の技術のイメージは,といえば, 航空宇宙産業でした. 航空機は YS-11 以降,国産旅客機はなく, 未知の荒野が広がっているように見えました. スペースシャトルが地上と宇宙を行き来し, 工学といえば,航空宇宙産業は伸びていくのだろうと, 思っていました. 理工系では偏差値的にも工学部の航空学科のレベルが最も高く, 航空を出て,三菱重工や,今の JAXA に行くのが, 正統派の機械系の進路のように思っていました.
他の先端技術といえば,電気工学や情報工学がありました. 筆者の子供の頃は電子ブロックというおもちゃがあり, あるいは電気部品を基板にハンダ付けして回路を作って 遊んでいましたが,それが IC チップになり, LSI になり,という進化を目の当たりにしていました. その最終形がパソコンやテレビゲームでした. 電気系の分野は発展はしていくのですが, アナログ回路の面白さが減って行き, ワケがわからなくなっていましたので, 尊敬はするけれども興味がわかない,という状態でした. テレビゲームからはお仕着せの技術を感じ, より自由なパソコンはまだ高額だったということもあります.
また,バイオにも最先端があるということは, 金魚の繁殖をしていたので知っていました. 材料工学に最先端があるかということについては, 化学が暗記科目だったため,実感がありませんでした. (こう書き下して思ったのですが,この認識が正しく 今も残っているとすると,化学者として由々しき事態では ありませんか.)
そのような次第で,いずれにせよ, 機械の塊だとしか認識していなかった, 自動車工学と基礎研究ということが, 自分の中で,結びついていませんでした. 現在の若い人はどうなのでしょうか.

自動車は完成しているか?

自動車工学は古い学問です. たとえば,筆者が研究開発に関わっていた機械に トラクションドライブというものがあります. 二つの転動体を接触させて,摩擦で回転を伝える装置で, 高級車の無段変速機として 2000 年前後に注目を浴びた装置です. この基本特許は 19 世紀に既に成立しており, 乗用車の変速機として成立させるためには,あとはトラクションフルード と呼ばれる特殊なオイルの高効率化が必要である,という状態でした. そのために,分子動力学シミュレーションを用いた研究を はじめたわけです.
すなわち,トラクションドライブの科学技術とは, アイディアは 100 年以上前からあったものの, 材料の問題から実現できなかった課題に対して, 分子シミュレーションという新しい着眼点で解決する, という構図になっています. 100 年経っても解決していない, いわば,古くて新しい技術といえるでしょう.
自動車工学の別の切り口として,では,電気自動車はどうでしょう. 有名な話として,1898 年にポルシェ博士が電気自動車を開発した という話があります.それ以前から,自動車の黎明期から 電気自動車は提案されていたようです. ポルシェ博士はハイブリッド自動車も開発していました. では,どうして電気自動車がガソリンエンジン車を駆逐して いないかというと,電池の性能がガソリンエンジンに 及ばないからです. ガソリンは,数分の間に数十リットル給油すると, 数百キロ走行できます. この能力に匹敵する電池を市販製品として提供することは, 今もって困難です. この話に関連する有名な話題として,「佐吉電池」があります. 豊田佐吉は 1925 年に, 飛行機の動力源にもなり得る電池の性能を提示し, これを実現する懸賞研究を公募しました. しかし,この電池は未だに実現していません.
以上,変速機,動力,いずれの観点からみても, 自動車は完成しているとは言い難い状況だということです. こうした基本的な課題に加えて, 自動運転,環境や安全性能など, 克服しなければならない課題は山のように残っている というのが現実なのです.

1,000 回引用される研究

ところで,最先端の研究課題を克服した成果は, メーカーならば製品に反映するというのが王道です. もっとも,何度か述べているように, 科学技術というものは, 研究と開発の間に大きな谷間がありますので ( 理学⇔工学,基礎科学⇔応用科学よりも,「研究⇔開発」の間に大きな谷間がある 参照), 大半の優れた研究成果は論文として世の中に示されます.
では,その研究論文が優れているかどうかの尺度は どうしたらいいかと言いますと,これまた厳密には 難しい問題ですが, ここ 20 年弱の流れとして「被引用数」という尺度があります. 筆者は,トムソンロイター社の Web of Science という データベースが普及しはじめた 1990 年代後半に学位論文を書いていたので, 先生方の「偉さ」が数値として誰の目にも露になる 恐怖というか興奮を良く覚えています.
クリックで拡大 さて,自分の論文のことは完全に棚にあげて (微笑), 筆者が以前所属していた自動車の基礎研究所の成果を 客観的に評価すると,右図のようになります. これは,Web of Science に掲載された (株) 豊田中央研究所 (以下,豊田中研) の論文を 被引用数順にソートした結果です. 論文は,10 回引用されたら良い研究であり, 100 回引用されたらグレートな研究, 1,000 回引用されたら超グレートな研究,だと思います. 実際,飯島先生のカーボンナノチューブの論文は 被引用数 10,000 回を越えて,Nature 誌最多被引用記録を 保持していますが,他のノーベル賞受賞者は 1,000 回台の被引用数の方が多いです. 豊田中研の場合は,7 報の論文が 1,000 回以上引用されています. 2 番目の Ray & Okamoto の論文は,豊田中研の成果である ポリマー粘土のハイブリッド材料に関する豊田工大 (豊田中研の移転跡地にある関連大学) の先生による レビューですので,参考のために挙げています.
クリックで拡大 これが,どのくらいのものかを判断するために, 日本を代表する研究機関である理化学研究所 (以下,理研) について 同じ解析結果を次に示します. さすが,理研だけあって 1,000 回以上引用されている 超グレートな研究は 38 報あります. ところが,良く見てみると,夥しい数の著者による共著が多いです. そこで,corresponding author (責任著者,問い合わせ先) が 理研所属である論文を黄色で示しました. すると,12 番目から 38 番目までに,6 報が 紛うことなき理研の成果であることが判りました. やはり,ヒトゲノム計画や素粒子実験のような, 世界中の科学者が参加するビッグサイエンスの論文に, 理研の科学者は沢山参加しているということだと思われます. 以下,1,000 回未満の引用数の論文で理研の成果をオレンジで示しています. 1,000 回未満の引用数の論文については, さすが理研は豊田中研よりもはるかに多くの業績を挙げており, より詳細に分析すると,被引用数の裾野が長いことからもわかります.
まとめると, ビッグサイエンスの研究がしたければ, やはり理研などの研究所で行うべきでしょうが, 少数の研究者が実験室レベルで行う研究であれば, 日本の民間研究所でも 世界最先端の研究を行えることが理解していただけたかと思います.

Outstanding Referee

さて,派手に引用される論文の話よりも地味ではありますが, 筆者がそれと同様に素晴らしいと思っているタイトルが 一つあります.それは, APS (アメリカ物理学会) の Outstanding Referee です. この称号を,研究所時代の隣の研究室の方が授与されました. 卓越したレフェリーになるためには, まず卓越した論文を何報も APS の Phys. Rev. などに 載せる必要があります.その上で, 一流のコメントを送り返し続けた結果として, この称号が得られるのです. ざっと見たところ,日本人では東大や京大の大先生が多いですし, 全体でも企業研究所の人はごく少数です. ある意味,Nature や Science に論文が掲載されるよりも, 価値が高いのではないでしょうか.

デカルトは哲学でなく実学の人

大学で,理論物理などのいかにも基礎的な分野の研究をしていると, このような感覚はわかりにくいものです. また,学生時代における「企業」との距離感については, 同じ大学の大学院にいても, 機械工学や高分子材料などの「食える理系」の研究室にいる場合と, 純粋な理論あるいは基礎生物学の実験などの 「食えない理系」の研究室にいる場合とでは かなり違います. 自動車の基礎研究所では,これほど基礎研究を頑張っているのに, 「食えない理系」の側にいる人々は, そういう事実を知りません.
筆者は,このページで何度も繰り返しているように, 科学技術には基礎も応用もない,貴賎も上下もない, と考えています. デカルトの時代に自然科学が哲学から離れて, 形而下学になってから,一度もピュアなものに なったことはないと考えます. その傍証として, 近代物理学を発展させた クーロンやナヴィエといった自然科学者たちは 実は土木技師であったこと, 化学における最もピュアな成果である 周期律表を発見したメンデレーエフは 鉱山学の出身であること, クリックで拡大 ソフトマター研究は企業研究者がかなりの部分を 担っていること, など,これを支持するエピソードには欠かないことが 挙げられます.
もちろん,大学でしかやりにくい研究もありますし, 企業では研究がしにくいという例も沢山ありますが, それでも,企業において基礎研究を行うことが出来ないと 頭ごなしに決めつけるのはいかがなものか,と 考える次第です.

大学も目先の短期決戦

本稿は,本学に着任した 2015 年 10 月に書いておりますので, ほとんど企業研究者の目線から書きますが, 最近の大学は目先の研究成果ばかりに目を奪われていて, いかがなものかと思います. 日本が,周辺のアジアの国々に先んじて近代化を成し遂げたのは, すぐに役立つ科学技術を取り入れたからだけではなく, それを支えるだけの,たとえば江戸時代から続く博物学や和算, 私塾などの伝統があったからだと思います (cf. 鷲津幽林 鷲津毅堂). 真の産学連携とは,より深い自然科学の本質的な部分で, 原理原則から真理を探究しつつ,抜本的な技術創成を行うために, 連携することだと考えます.
クリックで拡大 役に立たない研究こそを頑張るべきだ,と言ってるのではありません. 先に挙げたメンデレーエフの卒業論文は鉱物の結晶の話ですし, 私講師資格論文はケイ酸化合物 (岩の類) の構造ですし(以上は経産省受託研究), 博士論文はアルコールを水で割ったときの分析,酒の話です(財務省受託研究). その大変泥臭い分野の研究者が,究極の理論的洞察力を発揮して, 周期律表を発見するわけです. 科学とは,本来は実学の中に重要な自然の神秘が隠れているものである, と言いたいのです. 大学の側に立っていうならば, そのために,産学連携は是非必要なのであって, 学問的な態度を忘れて,二流の開発者となる必要はない, と思うわけです.

博士こそ企業に就職しよう

ということで,本稿の最後に申し上げたいことは, 博士の皆さんこそ企業に就職して,真の自然科学の 研究開発を行って欲しい,ということです. 1,000 回引用される論文を書くことは, 企業でも奨励されています. また,Outstanding referee になったら,かっこいいです. では,お前はなぜ企業を辞めて大学に来たのかといえば, そういうことを説得力を持って皆さんにお伝えするために, 来たという次第です.
こういうことを,博士号取得時には全く考えていませんでした. ちゃう,自然科学というものは,大学から離れたら 消えてなくなるような淡くて弱い存在ではない, と今では自信を持って言えます.
もちろん,研究開発者にとってパトロンは大事です. パトロンとは,昔は貴族であり,今は企業です. 良き理解者があって,はじめて研究生活は成り立ちます. 合理的に考えて,原理原則からの研究開発こそが, 企業のイノベーションそのものであり,国力の源泉です. これを理解することは,それほど難しいことではない筈です. 聡明な経営者の皆さんは理解されておられます. 是非,良き理解者に巡り会い,就職してください.

研究者の良きパトロンとは

どういう会社が,良きパトロンであるかというと, 論文を書くことを奨励している会社かどうか, というのがひとつの判断基準でしょう. 向上心を持っている技術者ならば,研究成果を 論文として基礎づけたり, 学位を取得したくなるのは当たり前です. そうした知的営為を積極的に企業活動とリンクできる 会社が生き残ります.
もっと洗練された例では,会社が教科書を出版する, という文化を持った会社が世の中にはあります. 図解入門よくわかる最新ベアリングの基本と仕組み (社員総出で歴史から応用までの教科書を作った例), トライボロジーの歴史 (その分野の歴史を網羅した大著を,会長が率先して翻訳チームを作り出版した例), クーロンの摩擦の原著論文の翻訳 (その分野の起源となる論文を,社員が翻訳して出版した例). ここまで徹底して文化的でなくてもいいとは思いますが, 少なくとも学会活動に寄与している会社に 就職することをおすすめします.

インターンシップの勧め

就職する前には,インターンシップという体験期間が 設定されていることが多いです. 筆者が勤めていた企業研究所では, 地元の旧帝大生対象の 3ヶ月の長期インターンシップ制度と, 全国の大学院生向けの 3 週間の短期インターンシップ制度がありました. 筆者の主催していた研究グループでは, この両者の制度を利用して, 3 年度にわたって毎年学生さんに来ていただいていました. その成果は,最初の年は国際学会発表,国際原著論文 1 件でして, 2 年目は国内学会発表,国際原著論文 1 件, 3 年目は国内および国際学会発表と, 驚くほど短期間の研究にも関わらず, 皆さん成果を挙げてくださいました.
普段と異なる環境に置かれると,人は思わぬ力を発揮するものです. また,思わぬ自分自身の姿を発見する機会にもなります. 就職活動の前に,是非,インターンシップをお勧めします.






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