2010 年の What's New!
最新のWhat's New
ここからしか飛べない過去のページもあるよ.
12 月 29 日: 車輪の再発明
年末なので、ボーっと仕事場の本棚の中を見ていたら、 20 年ほど前の先人の残した古文書があった。 その文書は、ある技術 (抽象的ですまん) を立ち上げた方の 書かれたもので、試行錯誤のあとが生々しく書かれており、 さすが、最初に手がけた人の持つ独特の説得力があった。 で、見ていたら、今走っている某仕事に対して既に検討が なされており、ネガティブな結果が得られていることが 示されていた。と、すると、新たに取り掛かる人にとっては そのネガティブな結果を克服するためのアイディアがなければ、 単なる 車輪の再発明になってしまう。
で、驚いたのだが、車輪の再発明という言葉は、 ソフトウェア業界では当たり前のように使われていると思うのだが、 それ以外の技術系の人にとっては有名じゃないらしい。 情報系じゃない人も、是非覚えておいていい概念だと思う。
「これは凄い!」と思って作り出したものが、 実は車輪の再発明だったというのは、ままあることだ。 音楽でも多い。アコーディオンの相棒は、いつも若くて新鮮な 心を持っていたから、これは新しいよと、いろんなことを 教えてくれた。もう少し詳しくみると、 厳密な意味で、先人の音楽の再発明そのものだということは、 とくに音楽では珍しい。コード進行が全く一緒でも、 メロディのつけかたが違うという感じで。 だから、新鮮な気持ちを大事にする心をなくしてはいけないと思う。 しかし、ビジネスとしては「これは新しくない」とバサっと 切られる恐れがあるから、暢気ではいられない。 そこの按配が難しい。
11 月 15 日: セルヴェ協会
ここ 10 日ほどの間に,前記の室内楽とトラのオケの本番二つで弾かせてもらい, チェロ同門&中学の先輩後輩の林裕さんと唐沢安岐奈さんの 円熟したリサイタル二つを拝聴して,何だか芸術の秋だった. そのお蔭で,旧い友人や恩師の方々と交歓することができて, また新しい方々と知り合うことができて, 音楽と水泳の神様にはまっこと感謝したい.
当 What's New! では チェロの超絶技巧について 2007 年あたりから, 2007 年 8 月 8 日 ボッケリーニの悦楽 という感じで,いろいろ述べている. 上記林さんのコンサートではポッパーやカサド(a-moll の絶版の ソナタだったが,プーランクやオネゲルを彷彿とさせる楽器使いに スペイン風の哀愁が重なって素晴らしい作品だった), セルヴェをはじめとする チェロのヴィルトゥオーゾの作品を取り上げておられて, 今回はセルヴェの作品 14 を演奏されたのだが, ブログを読んだら,セルヴェ協会のアジェンダのコーナーにその 演奏会が載っていると書かれてある. ということで,久しぶりにセルヴェ協会のサイトを見てみたら 2007 年の生誕 200 年に際して 故郷であるベルギーのブリュッセル郊外のアル (Halle) という街で セルヴェ祭りをやって, その記念 DVD や本などを売っていた. 3 年前に見たときよりはるかに充実していて通販までしている. ということで,この セルヴェ協会の出版物のページ を見て,注文してみた. すると会長の Peter Francois さんから直々にメールをくださり, 林さんを知ってるかと言われたので,もちろんですと返事をお送りした.
チェロ音楽好きの皆さんは是非購入あれ. アンナ・ビルスマさん (これとは別だが 1990 年のセルヴェ CD が秀逸! モダンで超絶技巧のビルスマが聞ける) などのスピーチや,セルヴェ祭りの演奏会の 模様の入った DVD, チェロとピアノの作品を中心とした CD, チェロとオーケストラの作品を中心とした CD, Francois さんの書かれたセルヴェの, 旅をするヴィルトゥオーゾについての伝記的な解説本, セルヴェ協会所蔵の自筆譜,手紙,当時のコンサートのチラシや 出版物などのカタログ, 以上をセットで 45 ユーロ.送料と PayPal 手数料込みで 7000 円ほどです. かなりお得ですよ! 本はオランダ語だけれども,英語の要約が書いてあるし, 美しい図版が豊富に入ってるし, やはり日本人なら蘭語くらい解せねば (嘘).
セルヴェの音楽は, 2008 年 5 月 27 日: チェリスト, ピアニスト, あるいは誇大妄想狂 で述べた「誇大妄想狂」的チェロの際たるものであり, 同じ国のヴァイオリンのヴュータンらとベルギー楽派の名声を ヨーロッパ中に轟かせ, リストやベルリオーズやロッシーニに絶賛され, 33 年間を「チェロのパガニーニ」として旅をして ロシアに長期滞在してロシア人の奥さんを娶った. わしが「誇大妄想狂」を絶賛する気持ちは已然として変わらないが, ネットの音楽系サイトを見ていると, たとえばリストを褒める際に 「晩年は無調の作品群を書いて 20 世紀を先取りした」といった 先進性を挙げる人が多い. そんな風に書くと格好が良いし, 以前わしも 2007 年 6 月 18 日: ヴィルトゥオーゾ讃 でダヴィドフについて述べる際に 動機展開がしっかりしていることに触れたりして, 要するに超絶技巧"以外"の要素があると言いたがりがちだ. しかし,フィギュアスケートでジャンプこそが重要であるように, ヴィルトゥオーゾの音楽では 「左手と右手の両者を合わせて超絶した(CD の解説)」 技巧そのものが重要であると思う. チェロは,ピアノやヴァイオリンほど演奏人口が多くないため, リストやパガニーニを楽々と弾きこなす人に対して セルヴェを弾きこなす人は圧倒的に少ない. アマチュアでは,さらに絶望的で, わしなども,カプリースや協奏曲の楽譜を「持っているだけ」に 毛の生えた状態だ. 最近練習しているが, とても人前では弾けない. しかし,アマチュアやリスナーは,自分で弾けなくても 愛でる気持ちを持つことが必要である. それが,プロが演奏するモチベーションになるからだ. 実は協奏曲の録音がまだない. ライブでは,先月もベルギーで演奏されたようだけれども, 録音が待ち遠しい.
(11 月 22 日追記: セルヴェは h-moll の作品 5 を含めて 3 曲協奏曲を書きましたが、 遺作の a-moll の曲が youtube にありました. 上記 セルヴェ祭りでプリマドンナだった Seeli Toivio さんによる 何これ!って感じの素晴らしい演奏です. 1 楽章 2 楽章 3 楽章)
10 月 29 日: 弦楽四重奏
今度内輪の会でカルテットをやることになって,そのパンフに 何か解説をということで,書いた文章. 弦楽四重奏の歴史を簡単に,公平に書いてみた. 1755 年のハイドンの作品 1, 2 は「ディヴェルティメント」であって, これを弦楽四重奏とすると,モーツアルトのアイネクライネも弦楽四重奏に なってしまう. チェロやヴィオラを弾いていると,ディヴェルティメントとカルテットとの 境界は,弾いていて面白いか面白くないかで明瞭に区別できる. 1661 年のボッケリーニの作品 2 の内向性,各楽器の独立性こそが 弦楽四重奏の原点ではないか.いかがですかな,以下:
弦楽四重奏は、1760年代にボッケリーニとハイドンによって創始されました。2人は田舎の大貴族のお抱え音楽家というサラリーマン的立場にありましたが、その作品はパリやウィーンといった音楽の都で出版され、新興ブルジョワジー階級のアマチュア音楽家に広く受け入れられました。我々もその末裔であります。バロック時代の宮廷の室内楽に対して、単純明快を特徴としていましたが、さらにボッケリーニは4つの各弦楽器の独立性を高め、ハイドンはソナタ形式に弁証法的な哲学的構造性を与えました。モーツァルトは、この分野ではハイドンの模倣者であり、新作が出版されるたびに模倣していましたが、本日演奏する2曲目「ホフマイスター」で、はじめて肩の力を抜いて独自の作品を書きました。3曲目「ひばり」は、さらに後に自由自在となったハイドンによる古典派弦楽四重奏の最高峰の作品です。
(中略)
最後は、ラグタイムの王、スコット・ジョプリンの代表作「ジ・エンターテイナー」を編曲したものです。彼はピアノによるダンス音楽を独学で開発し、10代からプロとして活動しています。実は、ハイドンも20代後半で就職する前はストリート音楽家でして、出会い頭の一発芸。本当は小難しい説明は似合わないのです。ということで、お気軽にお聞きいただけますと幸いです。
10 月 1 日: 教科書に載ってた
仕事場の図書館に,お世話になっている先生の書かれた教科書があって, 拝読させていただいていたら,あれ? どこかで聞いた水の話が載っている. なんと,自分の研究を引用してくださっていたのであった. これは宣伝せねば!
マイクロトライボロジー入門 安藤泰久著, 米田出版=産業図書 (2009).
論文の中で引用していただくのもありがたいけれども, 教科書には別の嬉しさがある. 一歩,引いて眺めても視界に残っているような.
そうそう,先月の志摩の学会では, ヤマハリゾートだったのでクラヴィノーヴァが沢山あり, 暇なときに弾き比べをしていたら, 秘書の方があまりに可愛くお願いして 来られたので,ついつい懇親会でピアノを弾いてしまった. もう人前でピアノソロを弾くのは 10 年以上ぶりで酔っぱらった勢い としか..でも,エクスキューズとして, この曲はチェロのために書いた曲で, ヘルムホルツや ラマンもヴァイオリンの摩擦や音響の研究をしているという話を したら,ヴァイオリンのヘルムホルツ波の 物理モデルを卒業研究のテーマにしているという 方とお話ができた. いろいろなものが,淡くつながっている.
(ちなみにわしの題目は Mechanism of ultra low friction of multilayer graphene analyzed by coarse-grained molecular simulation で, 「円錐の中で見事に廻転するコロイド粒子」とは グラフェンのことでした. Geim & Novoselov さん ノーベル賞おめでとうございます. つながりが淡すぎますが... 10月5日追記)
9 月 2 日: 本来の用途
ここ半年ほど, 2006 年 5 月 13 日: ピアノ で導入したピアノが,息子の玩具という本来の用途で使われている. マーガリンじゃなくてバターじゃなきゃ,という所以. 6 ヶ月くらいの頃から触らせているのだけれど, 相当気に入っているようで, 最近は放っておいてもピアノの下までいって, 立ちあがって,バンザイの格好で鍵盤にすがって, 必死に鳴らしている.
じゃあピアノ弾こうと,膝の上に座らせて弾かせる. まあ,楽譜を読めるわけでもないし, 曲を教え込んで覚えるわけでもないので, 全て即興, インプロヴィゼーション,おフランス的には アンプロンプチュであるわけだが, それでも少しずつ上達している気がする. 自己研鑽だけでなく,周囲から技術を盗んでいる点も見逃せない. わしが何かパッセージを弾くと, 黙って見ている.気のせいかもしれないが, 「かっこいいな」という憧れの眼差しを感じる. しばらくすると,自分流で弾きなおす. もちろん,最初のわしの弾いたものとは似ても似つかず バンバン鍵盤を叩いているだけなのだが. 2000 年 10 月 23 日: 海の上のピアニスト で「音楽史の進歩」と大げさに書いた, 「感動する, 真似る, 歪める (新しい音楽にする)」を 彼も実践している. また,低音を出す左手の音は少なめ,右手の高音は沢山の音を弾く. 世の中の大抵の音楽はそうなっている. これは本能だと思うのだが,人の脳は思ったよりも多くの 機能が先天的にプログラムされているようだ.
いつの頃からか, 妙な演奏方法を見せるようになった. 親指を立て逆さにする格好で,親指だけで鍵盤を叩く. これは,妻が発明した方法なのであった. これだと,0 歳児の弱い力であっても一音一音を 確実に発音することができる. 「卵を握るような手の形」で弾くようにと 教えられてきた人には,まず思いつかない, 奇抜だが合理的な演奏方法だ. (ちなみに妻は発明家で,以前 ● 餌: イトメ で紹介したイトメの保存システムを考案し, 保存期間が倍以上に延びた.)
父親の方は勝手に弾いてるだけで 何も具体的な方法論を指導していない間に, 母親がしっかりと「教育」を授けてくれている. 一年前は,生まれていきなり ICU のお世話になって 最悪を覚悟したことを思うと, 何気なく弾いている瞬間瞬間が, 何もかもありがたい.
8 月 26 日: 鳥羽・野間
志摩に 1847 (弘化4) 年生まれの 163 歳の老人男性がいる,という 新聞記事を見て,おお,これぞ「志摩の古翁」か,と 伊良子清白の詩を思い出す.
古翁(ふるおきな)しま國(くに)の
野にまじり覆盆子(いちご)摘(つ)み
門(かど)に來(き)て生鈴(いくすゞ)の
百層(もゝさか)を驕(おご)りよぶ
しかし,清白は志摩の詩人であったが, この大変ビジュアルな詩は「淡路にて」の冒頭なのであった. 「しま國」というのは「志摩國」ではなかった. しかも,その続きに,鳴門がどうのこうのと書いてあったはずだ. 記憶なんていい加減なものである.
志摩半島の詩といえば,谷川俊太郎の連作詩「鳥羽」に,胸躍った頃があった.
海という
この一語にさえいつわりは在る
けれどもなおも私は云いつのる
嵐の前の立ち騒ぐ浪にむかって
20 年も前の話だ. 調子にのって,伊勢湾を挟んだ対岸である知多半島は野間を放浪したときに, 「野間」という連作詩を作った. たしか,こんな感じだった.
野間の浦人たちは( )する
信ジルナ 信ジルナ ソシテ去レ
間抜けなことに,この括弧の中に何が入っていたかを思い出せない. 要は 2007 年 12 月 24 日: washizu.orgなので に書いた鷲巣玄光について調べて, 野間大坊の血染めの沼などを徘徊しているうちに, 源義朝の最期とシンクロしていた,ということなのだが. そう,「半島」という, 両義的 (島であり島でない), 不安定 (半島はフラクタルだ,分数次元), 未熟, 南方的, エロティックな言葉の持つイメージに凝っていた.
半島の先をきみは指で辿る
フロントガラスに映し出される物語に
ぼくは( )する
そうそう, 2008 年 12 月 29 日: 廻転するコロイド粒子 で「もう何ヶ月かは書けない」と書いていた 「円錐の中で見事に廻転するコロイド粒子」の物理, について,来月,志摩で開催される国際会議に レジュメを送ったら,招待講演扱いしてくれることになった. 興味を持ってもらえて大変嬉しい. この会は 3 年前に渥美半島の先の伊良湖であった. いろいろなものが,淡くつながっている.
6 月 2 日: 瓜生繁子
「女子留学生」について書こうと思っていたら,6 月になってしまっていた.
瓜生繁子―もう一人の女子留学生,生田澄江,文藝春秋,2009
鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生,久野 明子,中央公論,1988
明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女,寺沢 龍,平凡社新書,2009
最も有名な人は津田梅子なのだが,彼の地の大学を卒業した人は他に二人いて, 瓜生繁子と大山捨松である. 大山捨松は,戊辰戦争で会津藩の家老の娘として若松城の篭城戦を経験し, アメリカ留学の後に大山巌大将の妻として「鹿鳴館の貴婦人」となり, 日本人としてはじめてバザーを開き看護学校を設立するという, いかにも大河ドラマの主人公に推薦したくなるような人物である. 最近の女性ターゲットのテーマ選択,社会の右傾化というか明治時代の 見直しの風潮から考えてもぴったりだと思う.
もともとは「最初に本格的=幼少からまともなクラシック音楽の 教育を受けた日本人って誰だろう」と思い至って, 瓜生繁子に遭遇したのであった. 日本のクラシック音楽の黎明といえば滝廉太郎であるが, 彼が活躍したのは 1900 年前後である.つまり,明治 30 年代だ. それまで 30 年間,日本人は何をやっていたのかといえば, 幸田延という露伴の妹が, ウィーンでブルックナーの弟子のフックスに師事して, ヴァイオリンの先生などを務めたのが有名である. どうでもいいが,フックスのチェロソナタはフォーレとブラームスを 足して二で割ったような,なかなかの名曲である. それにしても,1890 年代の話だ.
その更に先輩となるのが,瓜生繁子というわけだ. 彼女がアメリカのお茶大たるヴァッサー大学で学んだのは 1870 年代. 当時の演奏会の曲目を見ると,1 にメンデルスゾーン,2 にシューベルト だったことがわかる.ドヴォルザークはまだアメリカに来ておらず, ブラームスは最先端すぎて,まだ,クラシック,じゃなかったようだ. 彼女が歴史に残るに際して不幸だったのは,その後,東京藝大の前身や お茶の水大の前身で教えたにもかかわらず, その後の音楽家の留学先が,滝廉太郎のライプツィヒを筆頭に ドイツ,オーストリア中心となったため, 「本格っぽさ」が感じられなかったためであるらしい. 繁子のちょうど 100 年後にアメリカで音楽を学んだわし的には, ちょっと納得がいかないですよ. ともかく,繁子は,ちょいとエキセントリックに 職業婦人を貫徹した梅子や, 逆に政府高官夫人としての責任から専門性を発揮しきれなかった捨松と違い, 職業人としても家庭人としても幸福であったと, 繁子本著者の生田氏は述べていて,なるほどそのとおりだと思う.
ということで,ここ数年は繁子の研究が進んでいるようで, リヴァイヴァルが来ると思う. だから何だと言われると困りますが. 美女の捨松が主人公に相応しいことは変わらないが, 捨松を中心に梅子と繁子の 3 人の友情と激動の人生を 描くというドラマにしたら,面白いだろうなあ.
4 月 20 日: 周期表あるいは戦艦大和
この春に小学校に入る甥っ子が, 水兵リーベぇ僕の船〜♪ と歌っているのに驚いて, 「なんで周期表を知ってるの?」と 聞いてみたら,マイブームが 「エレメントハンター」という アニメ&ゲームなのだそうで. 元素か!おいちゃんも元素は大好きだよ. 炭素のコーティングに珪素を入れたら 酸素と水素が集まってきて 摩擦が下がるメカニズムを研究してるんだ. で,好きな元素は何? ドラゴンナイト? そりゃ残念ながら実在しない元素だな.
この子は漢字も沢山読めるし賢い. で,ふと思い出したのが, 先月,本郷の工学部二号館の一階に 飾ってあるのを見た「平賀中将」を紹介するボード. 平賀譲氏は戦前の日本を代表する造船技術者で, 日本にとって不利となった海軍軍縮の ワシントン条約を打破するために, 軽排水量でありながら高装備の 駆逐艦や巡洋艦を作って, さらに戦艦大和を設計した. 彼は東大総長でもあったのだが, その頃の事跡が,ボードには書いてあった. そのボードを見て,そこに書かれていることの 大半を自分が既に知っていたことに驚いた. 平賀中将については,7 歳の頃に読んだ 「戦艦大和のすべて」という本に解説されていた. 大和に用いられた低抵抗の球状艦首などの技術は, 戦後のタンカー作りに活かされ高度成長を支えた, といったことも書かれてあった.
「戦艦大和のすべて」を持っていた理由は, その当時,宇宙戦艦ヤマトが流行しており, ガンプラが流行する直前までは 軍艦のプラモデルが主流のひとつだった という理由にすぎない※. それでも, 子供の玩具の延長であっても, 一度リアルに基づくものに触れておけば, その子供の成長に役立つと思う. その点で, この「エレメントハンター」を作った人は 考えたなあ,と思った.
4 月 11 日: 対バン
で,前回紹介した宗教曲の演奏の" 対バン"は, 作家の五木寛之氏でした. ライブ的なものは何でも対バンなんですな. まあ客観的にみると,対バンというよりも こちらが前座,という方がはるかにしっくり来るわけだが, ハート的には対バンということで. ちなみに,先月末は東京タワーのふもとで 学会主催の講習会の講師を 務めさせていただいたのだが, そういう会でも,他の講師の先生方を "対バン",と心の中でお呼びしている.
五木さんのお話は,さすが面白かった. 門徒のみならず一般市民を交えた 1000 人に及ぶ 聴衆を相手に,居眠りする人をほとんど出さずにお話される. これは,30 分も経たない間に居眠り学生や 居眠り重役を出現させる技を有する わしからすると,驚異的. この対バンに際して 五木さんの「親鸞」上下巻を読んでいたのだが, この本は「風の王国」とセットで読むと面白いと思う. 両者とも,山の民,河原者などの「下から目線」で 日本を眺めるという姿勢を徹底している. 親鸞は法然と出会う前に, 聖徳太子廟で断食をするわけだが, この廟のある 二上山という場所の力も借りている. 因みに,わしの大好きなストリート歌謡の第一人者の 後白河さんも登場する. で,当日は, ライブというのが大事で, 新約聖書にしても歎異抄にしても, 教祖が「述べた」言葉を記録している, そういう方式に真実がある,といったような ことを述べていて,とても共感した.
良いアイディアを思いついたら,それを皆さんにお伝えしたい. これがライブをする動機の根本であると思う. 音楽,文学,科学,宗教,どんなジャンルであっても この根本は変わらないように思う. 自己顕示欲と似ているけれども,伝えるものが アイディアであるか自分自身であるかという点で, 微妙に違いがある. ところで,これらのライブに関わっている人たちの中に, この「ライブをしたい」という気持ちを誰もが持っているのだと 勘違いしている場合がある. 何が言いたいかというと, わし自身を含めて 自分のアイディアを喧伝するのに必死な人たちは, そうでない人たちもいることに気づかない場合があるということだ. 研究室で実験をするのは好きだが,別に学会発表などはしたくないという 技術系の人が,発表することを押し付けられたという 話を聞く. あるいは,東京で大変高度な技術者として働いてきた人が 地方に移った際に,この地方にはあなたほどの人はいないのだから, 淡々と技術を使うのではなくて, 学校や文化センターのような場所で講義した方が 楽しいし儲かるのではないかなどと 提案してしまったこともある. ライブなんてとんでもない, 自己顕示欲が全くないという感じの人も世の中には結構多い ということも,備忘録に記しておきたい.
ともかく, わしはライブが好きなのだが 音楽にしても科学にしても, ライブをする機会を与えてくださった方々, 来場してくださった方々に, いつもいつも多謝であります.
4 月 4 日: 神の調べ,仏の調べ
ここ数年,お世話になっているお寺関係の話を書かせていただいていますが, 今月は親鸞聖人750回忌の行事に誘っていただいて, 平田聖子先生の合唱曲「本願力にあいぬれば」をアレンジしたもの二曲と, 信時潔「みほとけは」を編曲しました.
平田さんご本人について,またその合唱曲について 複数の筋から聞くことが重なって,今回の件になったのですが, 「宗教曲」というものについて考えるとても良い機会になった. 平田さんは,阿弥陀如来についての曲を書かれたわけだが, 7 や 9 の和音を多用した今風のというかポップス的な音楽に, 最初は意外な感じがした. 阿弥陀如来についての和讃を西洋音楽の語法で 語ってよいのか,というような.
のだけれど,考えてみたら, ヨーロッパの宗教音楽にしたところで, イエスさんが了解している音楽というのは多分一曲もない. たとえばモーツアルトのレクイエム,フォーレのレクイエム, とても素晴らしくて,神についての本質が含まれているように 聞こえるが, 全然違う音響だ.でも,どちらも真摯なレクイエムである. もっと前に戻ったところで, グレゴリオ聖歌と呼ばれる音楽にしたところで, 西暦 800 年以降なのだから, ジーザスさん本人が了解している音楽というのは多分一曲もない. 神に対する敬虔な心を音楽にしたら,こうなりました, というのが宗教曲なのである. わしが好きなラフマニノフの「晩祷」や ヴェルディのレクイエムなども, 放蕩息子が真摯な気持ちになりました,という類の音楽である.
逆にいうと,「そういう」気持ちを欲すれば, 「悪人」でも,現代人の我々でも, 誰でも宗教音楽を書いても良いのだ. これは,平田さんが教えてくれた意外な教えである. 「みほとけは」は,どことなくシューベルトの「死と乙女」 (弦楽四重奏の変奏曲) のようであるし, 平井康三郎「衆会」は,ハイドンの「皇帝」 (弦楽四重奏の変奏曲)を彷彿とさせる. ということで,こういう音楽を演奏しようとすると ヴァリエーションが湧き上がる. ヴァイオリンとチェロの二本で演奏するのだが, 次々と変奏が浮かんできてとっても幸福な気分. が,これは一応,宗教音楽を目指しているので, あまり甘美であったり,ダークサイドに陥っていてはいけない.
うーむ,ちょいと甘美だろうか.
2 月 26 日: 昔の論文を愉しもう
鳩山さんが総理大臣になったときに, 昔の鳩山さんは立派な論文を書く研究者であった, という話を聞いて,実物を見てみた. といっても,どこかに見に行く必要はなくて, 皆さんも下記をクリックしたらダウンロードできる. ON OPTIMAL POLICIES FOR MULTI-REPAIR-TYPE MARKOV MAINTENANCE MODELS. 大変難しそうな論文であるが,工場の中で機械の保全をするために どれだけ準備をしておけばいいのかという問題について, 確率過程論を用いて数学的に解析した論文のようだ. 題名のマルコフというのは,マルコフ鎖のことで, 機械の故障は履歴を持たず突発的に生じるという仮定のことだろう. この分野はオペレーションリサーチといって, 最近の金融工学などにもつながる. 恥ずかしながら,わしも確率過程論を用いた物性の研究をしていたので, 学位をとったあとでペテルブルグに招かれて金融工学の先生方を前に お話をさせていただくという機会を得た.が,転職したばかりだったので 辞退してしまった.この分野では,伊藤清という大変有名な方がおられて, 世界的に尊敬されている. そっちに鞍替えしたら,もう少し儲かっていたかもしれない.. ともかく,鳩山"先生"の論文は命題と証明が連なるいかにも応用数学っぽい 立派な論文だ.学術的な価値はわかりませんが.
こういう,良くわからない分野の論文を読むのは面白い. 誰だって最初は初心者なのだが,その初心を思い出すことができるからだ. わしもいくつも分野を変更してきたので,最初はわけがわからないが, いくつか同じ分野の論文を読んだり,教科書を読んだりする間に, ちょっとずつ理解できてくる,という経験を繰り返している. 同じ一つの学術誌のレフェリーをしていても, 実験,理論,マクロ,ミクロと 様々な観点を持つ研究者が投稿するものだ. 微妙に自分の研究テーマからはずれた分野の,実験系の論文の 査読依頼がきたりすると,一月くらいかけて新たに勉強する, という作業を繰り返すことになる.
で,上記鳩山論文の置かれているサイトは 国立情報学研究所の CiNii -NII論文情報ナビゲータ(サイニィ)- というもので,日本で出版された学会誌について,契約によって, 本文の情報を出すものから文献情報だけを出すものまで,いろいろあるようだ. わし自身の書かせていただいている学術誌は,あまり登録されていない. 「醫科器械學雜誌」というのが全文掲載ですばらしい. 「走る高気圧室」高気圧治療室塔載自動車について. 高気圧治療なるものが,これまた良くわからないのだが, 高気圧環境下ではヘモグロビンに酸素が結合する酸素飽和度が上がるため, 火災現場などに,この「高気圧ガール(知らないか)」ならぬ 「高気圧カー」が駆けつけると,一酸化炭素中毒の人々を治療できるかも, ということだと思う.ここの「第 2 図 車両の構造」のデザインが素晴らしい. 何というか,昭和40年代の,ウルトラマンの秘密兵器みたいな, 空想科学の図鑑的な,メカメカしい 内部構造図になっている.どう考えても,素人が描いたとは思えない. 続いて, 人工心臓 (人工臓器の現状と将来) という総説を読むと,1970年代初頭なのに SEM (走査型電子顕微鏡) の きれいな像が載っていて,SEM は 65 年頃から市販されたようなのに, 金持ち研究室だったのだなあ,と妙なところで感慨にふける. 上記二点は実は父の書いた論文なのだが, 最初のものは 30 代前半の頃で,無給の副手でありながら, 装置メーカーのみならず乗り物のメーカーなどとも共同で 新しい乗り物を作ったというのは,素直に尊敬したくなる. ふと我に返ると,自分の書いた論文も将来,こんな感じ,で死んだあとに 息子に読まれる危険があるわけで,文章を公表するということは 覚悟がいるものだと思った.もう手遅れですが.
NIIのサーバに置かれた論文は,別に科学技術系だけではない. というか,科学技術系は海外の文献を参考にする機会の方が 圧倒的に多いので本命ではない. 人文系の研究者は大学ごとに発行される 「紀要」に重要な仕事を載せることが多くて, こうした 人文系や社会科学系,あるいは芸術系の紀要論文を無料で読めるというのが この NII のサービスの真の醍醐味である. たとえば,わしの義姉は社会科学系の教員なのだが, はじめて論文を読むことができた. その類では, 運動の機能的分類に従った弦楽器(チェロ)奏法の指導 が感動的. チェロの林先生が 70 年代からチェロ奏法の研究を 精力的に展開されていたというのが良くわかる. わしが弾かせてもらっていた手書きの練習曲の載ってる五線譜の, さらに初期のバージョンのようで,しかも (もちろん) 解説つきなので 大変貴重な文献である. ほかにも,アルペジオーネソナタの伴奏法の論文など, 興味があるキーワードを入れていくと, こりゃあ面白いという文献に出会えますよ.
2 月 5 日: 最小二乗法
大櫛陽一, メタボの罠:「病人」にされる健康な人々, 角川SSC 新書(2007). を読んでいたら,特定健診,いわゆるメタボ健診の基準になっている 「男性の腹囲 85cm 以上」という値が,科学的に無茶苦茶な方法で 決められていたことが理解できた. 「100 平方センチの内臓脂肪面積 (VFA) となる腹囲は何センチですか?」という 問題を考えるときに,x 軸に腹囲,y 軸に VFA と逆にして 最小二乗法でフィッティングしてしまったから, 得られた回帰曲線が間違ってしまったのだ.
上図の例に示すように, 青で示した 5 つのサンプル点から本来得られるはずの 回帰曲線 (この例の場合は直線) を求める作業が 最小二乗フィッティングである. y = f(x) の 回帰曲線は各サンプル点から曲線までの y 軸方向の距離 d (灰色の線) の和を 最小にするように求める.したがって,y = f(x) としたとき (黒い線) と,x = f(y) としたとき (赤い線) とでは, 求める曲線が変わってしまう. こんなことは,理系の素養があれば誰でも理解できることだ. ところが,大阪大学医学部のメタボの権威の先生方は 堂々と間違いをおかして,訂正をしない. 訂正してしまうと,メタボ健診の意味が揺らいでしまい, せっかく "病人" にでっちあげた人々 (わしを含む) が 無罪放免になってしまい,何兆円もの医療市場が困るからだそうだ. ちなみに,この研究室は,以前に Nature Medicine の論文捏造事件 をおかしており,その際は論文中に示した実験データの 元となるマウスが実在しなかったそうだ. 研究者がデータを取ることは,涙,涙の大変な作業なのに 変な処理をしてしまったり,嘘をついてしまったら データに申し訳が立たないではないか.
問題はこれだけではなくて (上記は大櫛2007の指摘の範囲), より統計学的に詳しくは,同じく大阪大学の坂本亘さんが 日本の「メタボリック・シンドローム」診断基準の統計的問題 として論文にされておられる. 心ある人は,ご一読あれ.
こういう非科学的であり政治的な介入に対しては, 悲しいことですが,ユーモアでもって対応するしかないでしょう. 腹囲を測定されるときにフッと頑張って日本人の平均値 85 cm を切るとか. 万一これに失敗した上で,血圧,血糖値,脂肪のいずれかが規定値を 上回ると,軽症のメタボ扱いされます. 取り下げた Nat. Med. の論文の場合と違って,我々の血液は実在しますので, この部分は逃れようがありません. さらに,自己申告の喫煙歴があると麻雀の "ドラ" のように作用して 重症のメタボ扱いされます. 禁煙後何十年たっても "前科" が消えないという問題については, 答える瞬間に "忘却" するしかないかも. もちろん,関西人やさかい冗談ですが.
2 月 1 日: 家庭料理
すんごく久しぶりに,家で室内楽を楽しませていただきました. シューベルトのアルペジオーネとかなんだけど, 一緒に演奏してくれる人がいるのは,幸福だなあ. 以前 電子ピアノはマーガリンで,アプライトピアノはバター, という例えを挙げた. このノリで例えると, 家での室内楽は家庭料理だ. レコードや CD などに録音されているものは, 名店の味のフリーズドライあるいは缶詰. オーディオに凝るということは, 缶詰の暖め方に凝るということかな. で,プロのコンサートを聞きにいくというのは, レストランにいって食事を楽しむようなものだ.
家庭料理にも二通りあって, シューベルトを弾く,などという作業は 名店のレシピを真似するようなものであり, 自分(たち)で作曲するということは, 勝手に創作料理を楽しむというようなものだ. どちらにしても,家庭料理は自由で,楽しい. まあ,味付けを間違えたりもするんですが.
1 月 18 日: 文化学院
久しぶりに 文化学院のサイト を見て,たまげた. 最初の flash 画像は高級住宅街の 新築分譲マンションのサイトのように立派になって, 学校全体としても,まるで普通の専門学校のようになっている. 建物も 14 階建てになって,BS 放送局が入って, 新装オープンだそうだ. ビックカメラの系列会社が運営しているそうだ. 風の便りには聞いていたが,ここまでイメージが変わるとは.
この写真は,1994 年当時の文化学院のアーチなんだけど, このアーチは辛うじて残っている. その向こうには,今は新しいビルにつながっているようだ. 昔は,アーチをくぐると中庭だった. そこに,学生たちがたむろしていた. もちろん,わし自身は偽学生であったのだが, 自分以外にも中退した人,そもそも入学していない人をはじめとする 偽学生が沢山いた. 「秋の集い」では,ライブをしたりした. ブルーグラスインでの OG やさかえさんのライブに来てくれた皆さんも,文化学院の人たちがメインだった.
アーチから見える中庭の景色が,もう現実のものではないのということが 何とも悲しい. 良いもの (大体は小さいものだ), というものが永続しないということだ. 気がついたときには,もう遅い. いまの我が家は丘の上に建っていて風通しが良くて, アティック (屋根裏) 部屋から眺める夜景が最高なんだけれども, 今夜にでもアティックに登って目に焼き付けておかねばと思ったよ.
この学校は, 卒業生一覧を見たらわかるように, 日本の文化,芸能のかなり重要な部分を担っている人たちを輩出している. 一学年に 100 人もいるかいないかでコレだから,濃度が凄い. 在校生は,何か一芸に秀でていなければ辛いような, あるいは一芸がなくてもモデルのように美人だったりしなければ 辛いような,独特な空気が漂っていた. 田舎者のわしは,田舎にいるときには存在すら知らなかった. 堀越高校や駒場東大のことは 田舎の子供でも知っているが,文化学院のことは,なかなか知らない. 与謝野晶子や梅宮アンナ,米米クラブを知っていてもだ. 親が芸能人や文化人だったりするか,御茶の水のあたりを フラフラ歩いていなければ出会えない. つまり,人生に余裕がなければ出会えないという, 学校自体がまるで一つの芸術作品なのである.
芸術だなんて言ってしまったら, 一人一人の卒業生は生きているのだから, ちゃんとしてくれなきゃ困るとでも言われるかもしれない. しかし,学校としての実利的なものを取るか, 「人生の余裕」側を取るか,と問われたときに 堂々と後者を選ぶ人,学生,親,教師,学校経営者,が, 文化学院を作ってきたのだと思うし, そんな学校は日本に他に存在しない. そこが,何よりも大事だと思う. ここは教育ローンを積み立てて通わせる学校じゃない. 学費を免除してもらって官立学校を出た者として, 羨ましくも切なくも思うのである. でも貧乏人は,偽学生として潜り込めば良い. 学校の名前は残っているのだから, そういう校風が残っていることを切に願う.
幸い, 昔の文化学院の面影を残したサイト は,今のところ残っている. 懐かしい,八知先生や利根先生の名前も見られる. OG が開館行事で演奏させていただいた 軽井沢の ルヴァン美術館 だけに残っている,というのでは寂しい. 形をかえても,あの魂は大事に残して, 育てていっていただけたらと思う. (上記サイトは現在はリンク切れで archive.org入りしました. そう,アーカイブ星に行ったのだよ: 9月2日追記)
1 月 15 日: 研究者≠科学少年
職場の実験室でテスターを使っているときに,ふと自宅には テスターを有していないことに気がついた. 実家には,テスターもハンダゴテもあったし, ラジオを作ったり,兄と一緒に自転車を分解したりもした. 今は,自宅でラジオを作れない.
そこで,周囲の研究者・技術者の皆さんはどうなんだろうと気になり, 質問をしてみた.「皆さんはラジオを作ったことがありますか」と. 意外なことに,質問に答えてくれた数人の方々は ラジオを作ったことがなかった.自宅にテスターもない. 一人の人は,自宅にテスターはあるし,自宅で自動車を分解する ような人なのだが,彼も別に子供の頃に電気工作はしていなかったそうだ. 皆さん,相当な理工系の高学歴であり,世界有数の研究所で 理系の仕事をしておられるのだが,別に科学少年じゃなかった,という 人々が結構沢山,ひょっとして過半数がそうであった.
わし自身は,父親が,仕事で人工心臓を作るだけじゃなくて, 自宅でテレビを作ることが出来た人だったから, ラジオを作るくらいだったら自慢にもならないと思っていたのだが, 意外や意外,俺って科学少年だったんじゃん,と. 粗大ゴミ置き場を漁って,電化製品を分解し, プリント基板を自宅に持ち帰り, 抵抗やコンデンサーを抜き取ってストックしたりしていた時期があるのだが, みんな,あまりそういう経験はしていないらしい. 水位報知器からはじまって,タミヤのモーターとキャタピラだけ買ってきて ラジコンを自作したり,電子ブロックでシンセサイザーを作ったり,と 何気に楽しく工作していた.高校に入ってからは考古学や現代詩といった 文科系にはまっていたので理系の勉強より文系の勉強の方が得意だったし, 進路は科学哲学をやりたくて駒場を目指していたので, 頭デッカチだと自覚していたのだが,意外に実践派だった.
で,ここからが魂の問題に入るのだが,「理科離れ」と言われて久しい. 理科の実験が出来ない小学校教諭が困っている,とテレビ番組で レポートされていたり,学会誌でもそういう特集が組まれたりする. 子供達が科学に関心を持たないと大人が嘆く. しかし,実は科学技術立国を担っている人々は,今現在だって 「元科学少年」ばかりではない.それは少数派なのではないか. 「科学少年」が世の中にうようよしていて, 彼らが大人になって先端科学を担っている,と漠然と思っていたし, 「理科離れ」を問題にする人々は,これを前提にしているのだが, 一度きちんと調査してみたらいいと思う. 実際のところは, ラジオも作ったこともなければ自転車のパンクを直したことも ないような人が,立派に先端科学の研究をして論文や特許を書いている. ある機械部品に関して生き字引といえるような還暦のベテラン技術者の方も, 別に家では機械や電気の工作はしていなかったと仰る.
理科離れの原因が待遇格差であるという主張も,かなり 眉唾だと思っている. 科学者,技術者よりも給料が良い仕事というのは, 大都市の一部大企業本社勤務の人々に限定されており, 一般的には理工系の大学や高専などを出た方が,そうでない専門を出るよりも 待遇の良い大企業に就職しやすい. 科学少年じゃない人々が,高くて安定した待遇を求めて 科学技術者としてメーカー等に就職しているのが現実なのではないか. 先端科学の現場においても 「オーバードクター」「ポスドク」の問題というのは, 理論物理やバイオといった一部の専門に限定する話だ. 生体高分子の理論物理という,最悪の専門の出身であるわしが 言うのだから間違いない. 日本の得意とする基盤技術である機械工学や電気工学や材料工学には, この手の問題はほぼ存在しない. 理論物理やバイオといった悲惨な分野出身の人々が 話題作りが好きなマスコミの方々と組んで 声高に叫んでいるだけで, 同じ工業大学出身者でも機電系の人々には全くピンと来ない話だ. (念のため付記すると,この話は,理論物理やバイオのポスドク問題が存在しないと 言っているわけではないし,この分野の若手研究者の待遇は全くもって酷い.) 科学の担い手たちの多数派は,貧乏でもなければオタクでもなく, 元科学少年ばかりというわけじゃない.
ということで,「理科離れ」に関しては,あまり悲観しなくても 良いような気がする. ただまあ,自宅にはある程度の工具や参考書を放置しておこうと思った. わしの父親は忙しかったから,そういう電気工作の類いを一緒に やってくれた記憶はないのだが,自宅に道具や参考書があったので 自発的に工作をはじめた.自宅にモノがあるというのは大事だと思う.
1 月 11 日: チェロの新約聖書
"聖典" の話. ピアニストにとっての "旧約聖書" はバッハの平均律クラヴィーア曲集であり, "新約聖書" はベートーヴェンの 32 曲のピアノソナタ全集であるということは, ピアノに興味を持ったり習ったりしていると一度は耳にする言い方である. 同様にチェリストにとっての "旧約聖書" はバッハの無伴奏チェロ組曲であり, "新約聖書" はベートーヴェンの5 曲のチェロソナタ全集であるということは, ピアノほどメジャーではないけれども,謂われる話である. ヴァイオリンニストにとっても同様なのかは少々謎であり, 旧約聖書はバッハで良いのだが,新約はというと,パガニーニの カプリースであったり,いろいろな説があるらしい.
ともかく,ピアノの新約聖書にまつわる話としては,まず, どこのピアノを習う家庭にも恭しくヘンレ版の「原典版」 の全集などが置いてあったりする. 全音などの日本の出版社の奴しかないとプッと思う人がいるかもしれない. 録音に関しても思い入れが強い人が多い. 中学の先輩の K さんが,15 歳の誕生日に,ケンプだかバックハウスだか, とにかく大御所の LP 全集(当時は LP から CD への過渡期だった) を 買ってもらったと嬉しそうに見せてくださったのが懐かしい. 別の中学の先輩の野村誠さんの出版された路上日記にも, テンペストを鍵盤ハーモニカで吹く件があるが, こういう "新約聖書" 文化を反映しているわけだ.
今日の本題に入るが,チェロの新約聖書はベートーヴェンの 5 曲のソナタという ことになっているが,本当にそれでいいのか? まあ,旧約聖書については納得しよう.バッハの無伴奏は毎日弾いていても飽きない. 音楽的にも面白いし,いつまで経っても到達できない "高み" の実感がある. しかし,ベートーヴェンに関しては,そもそも "毎日弾く" 人は, ほとんど居ないと思う.だって,これは相手のピアノがいないと面白くないから. たとえば,第一番の第一楽章の第一主題からして,チェロがドとラを八分音符で 「ジャジャジャジャ」と刻む上に,ピアノが主旋律を軽快に歌う. チェロ弾きとしては「ここでピアノの O 君が,軽快に歌うんだよな」と思いつつ 「ジャジャジャジャ」と刻んでいても,まあ不幸というほどではないが, やっぱり楽しくない. どうしてこうなるかというと,このソナタは「誕生した瞬間から完璧な室内楽」 だからなのだ.完璧な室内楽においては,各楽器の分担は対等であるため, 一人で聖書を読むように,毎日一人で楽しむのには相応しくない.
ということで,内容と数からいって,チェロの新約聖書に相応しいのは ボッケリーニのチェロソナタであると思う. ベートーヴェンのピアノソナタが "古典的ピアノソナタ" の代表であるならば, まさにボッケリーニこそがチェロの古典であろう. チェロの演奏技法の粋を究めているし,通奏低音の伴奏はあるけれども ほぼ全体的に一人で歌っていても楽しい曲であるし, ボッケリーニの音楽の "深さ" について僅かでも疑問がある人は, Le Guin さんの本 を一読したら良いだろうし, 数にしても,何十曲もある.
何十曲.あれ?全部でいくつあるんだっけ? そうなのだ.ボッケリーニのチェロソナタが全部で何曲あるのかは,実は謎なのだ. Dimitry Markevitch さんによると 38 曲 だということだが, まだ発見される余地もある. ちなみに,この Markevitch さんの論考は面白くて,たとえば ボッケリーニにおけるケッヘル (モーツアルトの K. 番号の人) に 相当する G (ジラール) 番号の Yves Gerard さんの研究のスポンサー役 を果たしたのは,かのピアティゴルスキーだということが書かれている. しかし,その Gerard さんの研究には既に漏れがあって, 上記 Le Guin さんの本で美しく解説されている Es-dur のソナタには G. 番号がない. ボッケリーニの場合,難しいのが,G. 番号がない曲は考慮に値しない などということは全くないことだ.実際,この Es-dur のソナタは 彼の代表作といっても良いほど精巧な音楽である.
さらに酷いことに,つい最近までは "全集" らしい "全集" の 録音すらなかったのだ. 比較的多いアンナ・ビルスマさんは 6 曲以上入れてるが, 10 曲は入れてないと思う. Naxos からも 6 曲入のものしか発売されていない. ところが,最近,Brilliant レーベルの弦楽五重奏の録音で (わし的には) 有名であった Puxeddu さんが, Boccherini: Complete Cello Sonatas を録音した. この中には 28 曲ほど入っている.ほぼ同じ曲の,通奏低音が 異なるバージョン (なんとヴァイオリン一本の通奏低音による チェロソナタ!など) も入ってるので,全数はこれより減る. ともかく,この 4 枚組は画期的な録音であり, チェロを愛する人には必携だ.
やっと "全集" の録音が手に入ったので, Ricordi が出している 19 曲入り "全集" の楽譜を買う気になった. これまで,楽譜については,ピアッティが 19 世紀にまとめた 6 曲についてのみ持っていた. 紛らわしいことに,この 6 曲の楽譜も Ricordi 社のものだが,それはともかく,十分楽しめる. "全集" に手を出さなかったのは, 上下 2 巻で 1 万円ほどするため, 子どものオモチャと一緒で,「今,持っている 6 曲 全部をちゃんと弾けるようになってから, "全集" を買うべきだ」という気持ちがあったのと, 取りあえず聴いてみてから,と思っていたからだ.
少々話が脇道にそれるが, Ricordi 社の歴史は,かなり面白い. wikipedia の短い記事なので是非,一読あれ. 19 世紀のオペラ文化の大いなる中心にあったわけだ. というか,Ricordi なくしてヴェルディやプッチーニは 存在しなかったくらいだというのは凄い. 3 代目がプッチーニを見出すところや, 4 代目になって "深い教養" のためにリコルディ家が経営から撤退する というのも,何ともドラマチックだ. このリコルディ家 4 代の物語は, まだ,映画化されていないのだろうか? BGM は絶頂期のイタリアオペラなんだから,素晴らしい音響と映像の作品に なりそうなものだ.
話を戻すと,旧約聖書たるバッハとの扱いの差には愕然とする. これまた,Markevitch さんがバッハの無伴奏チェロ組曲について ユニークな論考を書いていて,たとえば,この曲の出版された 楽譜は 2000 年までに 94 種類ほどあることや, 多くの楽譜が基礎資料としているアンナ・マグダレーナの 楽譜は信用が出来ないという指摘は興味深い. ともかく, 無伴奏の楽譜は年に一冊以上のペースで出版され続けており, "バッハの無伴奏チェロ組曲全曲演奏会" は 著名なスターから街のチェリストまで,多くの人が行うが, ボッケリーニのチェロソナタ全集は不完全であり, "ボッケリーニのチェロソナタ全曲演奏会" は 一度も見たことがない. この状況は,わしらが老人になるまでの間に変わったりするのだろうか. 個人的には,時が満ちてきている感じがする.
1 月 1 日: 年賀
あけましておめでとうございます.
今年も何卒宜しくお願い申し上げます.
今年の写真は,近所の公園に家族でいって撮りました. ここの公園は全体で 200ha 以上あり,結構広いところなのですが こうした動物の置物もいろいろあります. 考えてみたら,干支の生き物の結構な分を,ここで撮れるのでは ないかと思いました. これらの像は,風雨に晒されているし, 普段は子供たちが乗ったり,キックしたり, 恭しく展示されている,とは対極の扱われ方をしているわけですが, こうした像にも,作者がいて,その人がデザインを考えて, といった工程を経ているわけです. その人たちの思いをいろいろと想像すると, 現実からふわっと遠くにいったような気持ちになります. それはともかく,今年も宜しくお願いいたします.