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博士であることはとても重要

足の裏の米粒

博士号の価値について,日本では必ず言われるのが 「博士号は足の裏の米粒」という言葉です. その心は,取らなきゃ気持ち悪いが,取っても食えない, ということです.
「取っても食えない」というのをどう捉えるか,です. 筆者が博士号を取得して職探しをしたときに, 結婚していて他人より 3 年回り道していたので, 同期の大半がなったポスドクに自分はならずに, パーマネント (任期なし) の国立研究所研究員や, 大学および高専教員を目指しました. 沢山の採用公募に応募書類を送ったのですが, 大半が書類審査で落とされて, 面接で呼ばれたところも当て馬 (当選者が事前に決まっている), ということで,どこも仕事が決まりませんでした, その意味で,本当に「取っても食え」ませんでした.

編集者に博士号は必要

まあしかし,やっと決まった出版社の編集職では, 博士号を取得して入社したことを, 先輩方から感動の目を持って迎えていただきました. 筆者はポスドク 1 万人計画の初期の学位取得者だったので, それ以前の方々より学位が取得しやすい状況でした. ですので,先輩方には博士課程を中退された方が, 我々の世代よりも沢山いました.
実務上,理工系書籍の編集者に学位が必要かどうかですが, 筆者はあった方が圧倒的に良いと思います. その理由を次に書きます.

学位を取得することは,研究経験を一巡していること

博士号という学位を取得することは, 研究経験の最初から最後までを経験している,ということと等価です. それこそ夏目漱石が文学博士になった頃のような昔は, 博士号の重みはもっとあったでしょうが, 現在では上記の定義で大体あっていると思います.
研究とは,研究計画を立てて (plan), 実験なりシミュレーションなりを実行し (do), 検討結果を論文としてまとめ (see), 一巡したといえます. 修士課程でも,もちろん同様のサイクルを回しますが, 研究計画の立案は博士よりも広範な調査検討に基づいていませんし, 論文も国際学会誌の査読付き原著論文までまとめなくても 修士論文を提出すると学位が貰えるため,厳しくありません.
博士論文を書くということは,それが人類にとって はじめて経験する科学的知見であることを証明するための 文書を作るということですから, 広範な調査,検討が必要であることは言うまでもありません. また,原著論文を作成して受理されるためには, 外国人の査読者を納得させなければなりません. つまり,文字通り最先端の研究経験を踏まなければ 学位は取得できません.

出版企画,編集には学位取得経験が活きる

理工系書籍の編集者の先輩から教えられたことは, 書籍のクオリティは,著者を選んでテーマを決める段階で 8 割方決まっている,ということです. 著者を選ぶための安直な方法は,有名人を選ぶということです. 有名大学の先生であれば,無難でしょう. しかし,自分に最先端の研究経験があれば, より本質的な観点から著者を選ぶことができるでしょう. 原著論文を探すこと,読むこと,評価することが 一通りできるということは,有名無名に惑わされずに 学術内容を判断できるということです. あるいは,学会を聴講しても,個々の研究の意義を一歩深く, 自分で判断することができます. プレゼンが上手であることと,学術的な意義とは, 必ずしも相関しません. 昔の世代の先生方は,偉い方でもプレゼンが下手な方が結構多いです. そうした,見かけに惑わされないというのも, 博士の力というものです.
本を作る段階でも,学位取得経験は役に立ちます. まず,著者の候補者である先生と交渉するときに, こちらが博士であれば相手の心理的なハードルが下がります. より同業者的に,回りくどい説明が必要ない相手として 扱ってもらえます. これは,編集者でなくても企業人一般が アカデミックな人々と付き合う際の常識として成り立っています.
もっと細かくは,数式の意味を理解できる,文献の書き方などの 常識を理解できている,といった実務面でも重要です. たとえば,ハンドブックの類のように, 著者が複数いる共著書を担当するとしましょう. 著者によって,同じ数式が別のノーテーションで書かれることは, ままあります.読者からしてみると,これは誤解のもと以外の 何物でもありません. 編集者が数式の意味を理解できれば,より判りやすい本になるでしょう. また,博士論文を書くということは,一冊の単行本を執筆することに 相当しますから,著者が陥りやすい部分, 目次や索引,引用文献の記載などについて,細かく問題点を 指摘することが可能でしょう.
以上,書籍を企画する段階から実際に版下を作る段階まで, あらゆる場面で学位取得経験は役立つのです.

企業研究所でも博士は活きる

理工系の研究開発の場である企業研究所では, 博士号はより直接的に役に立ちます.

一人で計画できる (plan)

研究において最も重要なことは,「何を研究するか」です. 研究計画が立てられたら,研究が半分終わったも同然, というのは嘘ですが,3 割くらいは終わったも同然です. 筆者が企業研究所に入ったときに与えられたテーマは, 「摩擦の高い油って何?」でした. 上司は実験の専門家でしたから,油については理解されていましたが, 筆者の技術である分子シミュレーションについては素人でした. ですので,このテーマを与えられた,といっても, 本当に与えられた,というだけで,具体的にどう取り組むのが 適切であるかについては,筆者が一から考えねばなりませんでした. 逆に,専門家が自分一人だったので,とても気楽に研究を 進めることができました.これも,自分が博士号取得経験が あったからだと断言できます. まず,過去の研究を調べて,シミュレーション手法とそれに必要な 計算機資源などについて考え,アタリをつけ,計算するわけですが, 修士修了の段階でやったとして,成功できたかどうか謎です.
その次のテーマからは,「摩擦の高い油って何?」というレベルですら, やるべきことを示されずにテーマを決めました. 周囲の実験の先輩方がやっている研究を見て, 何が解明できていないかを考えて, 分子シミュレーションによって何が明らかに出来るかを考えて, 実際に研究テーマとして走らせました. 「どんどん一人でやった」といったら,格好つけて言ってるように 思われるかもしれません.あるいは,筆者に才能があったからだと 思われるかもしれません.いずれも違います. 最終的な成果の優劣については本人の能力や運に依存しますが, こういう仕事の進め方そのものは,博士であれば誰でも出来ます.

知的に実験,解析できる (do)

素人に研究をさせると,ピンポイントの研究をしがちです. 一点計算,一点計測などと言いますが, 僅かなデータでものごとを判断しがちです. そのような研究には,人を説得する力がありません.
博士号を取得するプロセスにおいては, 様々な背景を考察する必要があります. パラメータが複数あった場合,それを網羅的に調べる. そのパラメータの物理学的な根拠について考察する. そうした考察を踏まえて,はじめて, 研究結果を聞く側は,理解,納得することができます.
この点については,博士でなく出来れば修士の段階で 身につけておきたいものです. しかし,実際の研究開発の現場では, 手を動かすにも忙しいから,良く勉強できていないから, といった理由で, 知的とは言えないデータを見せられることがあります. 開発の工数を効率化するためにも, 知的な実験,解析は必要だと言えます. もちろん,投稿論文のクオリティもそれによりますので, 良い雑誌に掲載されることとなります.

ヒエラルキーを知っている (see)

研究成果を定着させるためには,特許化したり, 論文を投稿したり,他部署や親会社などに成果を売り込みにいったりします. 自分の研究成果がどのくらい素晴らしいのか, ということは,自明のようでいて明瞭ではありません. その点,博士号取得者は,研究業界における ヒエラルキーの中での位置づけを,より明瞭に理解できています.
論文の例が判りやすいですが, 論文には,査読のないものがヒエラルキーの最も下にあり, 次に査読のある和文雑誌,日本国内の英文雑誌, 出版社の出している国際雑誌,アメリカ等の権威ある学会の雑誌, さらに Nature や Science などがあります. どんな研究成果も Nature に投稿したら良いというものではありません. ヒエラルキー上,適切な場所に発表するというのが, 研究者の適切な行動であり礼儀です.
応用を目指した特許に関しても同様です. たとえば,材料特性に関して,ある特性だけ優れているものは, 実用上意味がない場合が多いです.先ほどの「摩擦の高い油」 の例でいうと,摩擦の高い油の多くは低温で固化しますので, 自動車用の油としては使えません. 応用を考えるということは,そういう現実に対応するということなのです. これが判っていないと,ある特性に優れた材料を開発できたら, 喜び勇んで,会社を巻き込んで大騒動してしまうことになります.
研究所の人々は,基本的に紳士です. 聡明で,博士号を持っており,上述のヒエラルキーを理解していることを 前提に振る舞います.ですから,もし,「判っていない人」が, 「こんな凄いものを発見しました!」と断定してしまって, 簡単に否定,却下されなかった場合, その発見は,「大発見」として一人歩きしてしまうこととなります.
ヒエラルキーとは,研究の価値の序列です. これを判っているということが, いかに深刻で重要かお判りいただけましたでしょうか.

良いマネージャには学位は必須

以上は,実際に手を動かして研究を実施する研究員の立場から 述べてみました. 日本の企業等では,年齢を重ねると何かしらの マネージメント的な立場での行動を期待されます. 上記の plan-do-see のあらゆる場面で, マネージャが博士号を持っていることは活きます.
研究計画の段階では,「一人で研究できる」の逆で, 修士以下の研究員の指導ができるということです. もちろん,博士を雇えば良いのですが, 研究計画の質は,「博士であること」×「実務経験年数」 でも決まります.ですから, マネージャ自身が博士であることは, 研究計画を立案する上できわめて重要です.
知的な実験,解析においても,マネージャの役割は重要です. 出されたデータの価値を判断するためには, 背景となる思想を理解していなければなりません. 立場があがるにつれて,具体的な技術の詳細については, 理解できなくなってくるでしょう. これは,担当するメンバーの分野の範囲が広くなるので当たり前です. しかし,一流のマネージャは抑えるべきポイントがわかっているものです. 上述の,材料開発における背反事項の確認といった点は基本ですし, 真に重要な発明発見であれば, 最先端のレビュー論文を読むなどして,ある程度,その技術の背景を 具体的にフォローすることは可能なはずです.
研究業界の偉い人の中には,「研究のファン」とでも言うべき人がいます. 立場が上なので,あがってくる情報が多く, マネージャとしての経験も知識も豊富ですが, その実,一度も博士号が取得できるレベルの研究を行ったことがない, という人です. 研究者に対して気の効いたコメントを述べる程度のことは出来るし, 開発者としてはそれなりの経験があるので, 研究に対して一家言もある. しかし,そういう方の一言で研究の現場が荒れる,ということも ままあります. そういう方ほど,僭越ではありますが是非,社会人博士を取得していただきたいと思うのです.

他の職業でも,博士号は重要

以上,筆者が実際に経験した,理工系出版社の編集者と, 企業研究者の例を挙げましたが,他の仕事においても, 同様に博士号は重要であろうと考えます.

科学技術行政,リサーチ・アドミニストレーター

たとえば,科学技術行政の現場では,上述の「マネージャー」 のところで述べたことと同様の意味で, 学位取得経験が活かされると考えます. 研究成果にはヒエラルキーがあるのですが, それを正しく把握できなければ, "名前" に引きずられてしまうことになります.
最近では,各大学に研究者とは別にリサーチ・アドミニストレーター という職種の人々を配置する動きも活発化しています. 企業研究所では昔から研究現場の経験者が会社運営側に異動することは 一般的でしたが,大学でもそのような状況が生まれつつあります. "高学歴" とは本来,東大の学部を出ることではなく,学士よりも 修士,博士を取得することです. アドミ部門の高学歴化は必然的な流れでしょう

サイエンスコミュニケーション

サイエンスコミュニケーションという分野も, ここ 10 年ほど広がっていますが, これに関わる方々も学位取得は必須だと思います. 科学はファッションではありませんので, 雰囲気でものごとを進めてはいけません. また,何よりも,研究は地味で地道な活動です. それを理解できるのは, やはり博士課程の 3 年間を措いてありません.

高等学校,専門学校等の教員

大学以外の教育に携われているる方にも, 博士号は必要と思います. たとえば,高等学校では, 最近は,スーパーサイエンスハイスクールといって 科学技術を先取りして教えるプログラムがありますが, 高校生でも海外に行って実習の成果をポスター発表します. 研究発表の様式をきちんと指導するためには, 学位取得経験は必須といって良いでしょう.
専門学校の教育においても,先生方が学位を有していることは, 学生さんへの教育そのものにおいても重要ですし, 文科省に規定された専門士等の称号を授与する機関の 構成員として必要であろうと思われます.

技術営業

技術営業という分野もあります. 筆者が直接お世話になっているのは, シミュレーション関連と, 摩擦測定の実験装置などですが, 博士の方の説明は,説得力が違います. 繰り返しますが,研究は地味で地道な活動ですので, 印象だけでソフトウェアや装置の購入は決めません. これら装置等の場合,顧客側から測定して欲しい サンプルを渡して (シミュレーションの場合は 元データを示して), 実際に測定をするといったことが良くあります. より高度には,共同研究という形で製品自体を 研究に活用する場合もあります. 今後,益々高度化する業界において, 研究経験なくして,適切に対応できるとは思えません.

会社経営者

似たケースとして,経営者の場合でも同様です. 筆者の友人に,医療器具のメーカーの経営者がいます. 彼は,文系の大学卒で長らく営業を担当していましたが, 社長となった 40 代になって大学院に通っています. 技術者と製品開発を行う際に, また,製品を顧客に適切に届けるために, 研究経験は必要だと言っています.

まとめ

研究というものは,今や学者の世界に閉じたものでは 全くなくなったというのが筆者の印象です. 博士課程に進学する場合も, 従来のように一般の就職はない, アカデミックに残れなければ意味がない, などと限定的に考えるのではなく, より広い領域を自分で開拓するつもりで, 進まれたら良いのではないかと思います.
このページには,学位取得者の実務的な面を沢山書きましたが, ご存知でしたでしょうか.筆者は,自分が学位を取った段階では, ここまで理解していませんでしたので, きっと役にたつことと思います.
筆者は,博士号を取得できたお蔭で, これまでいろいろな職業で生活して来られました. 大事なのは,博士という肩書きではなく, それを取得するまでの体験です. 足の裏についた米粒というよりも, 行く先々に稲穂を蓄えた田園が広がっている, その最初の一粒の米が自分の博士号であった, と思っています. 皆様にも,心から学位取得をお勧めします.

(追記) 博士以外の称号

「博士と名乗れるとかっこいい」という素朴な意味での 称号の重みについては,たとえばアメリカにおける称号 (title) が「Mr/Ms, Dr, Prof」の三種類しかないことでもわかります. 筆者はクレジットカードに「Dr」 と書いてあって何か良いサービスに出会ったことはありませんが, 名刺を渡すときには,多少は役に立ったと思います. ちなみに,イギリスの称号は,これだけあります. Baron, Baroness, Brigadier Captain, Col Dame, Dato, Dr, Earl, Emer Prof, Fr, Hon, HRH, Lady, Lord, Lt Cdr, Lt Col, Major, Miss, Mr, Mrs, Ms, Prof Dame, Prof Dr, Prof Lord, Prof Sir, Professor, Provost, Rev, Rev Dr, Rt Hon, Rt Hon Dr, Sir, Sister, Sqdn Ldr, Viscount. が ( RSC (英国王立化学会) の加入ページ 下部の Start Application の title タグにある称号一覧です), 良くわからないものも多いですが, 普通の日本人が獲得できる称号は,博士 (Dr) のみでしょう. これだけあっても,学士や修士は称号ではありません. それだけ,博士は重みがあるといえます.






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